『せつないかもしれない』も第20回になりました。
昨日UPの最新回はマンガ家の花沢健吾さんにラブコールを送っています。
http://www.nicovideo.jp/watch/1299232790
『アイアムアヒーロー』『ボーイズオン・ザ・ラン』『ルサンチマン』といった作品では男と女の価値観の違いが鮮明に描かれ、今の時代に男の子が「ヒーロー」になっていくにはどうしたらいいのかを、限りなく等身大の場所から問うている花沢さん。
やはり今回も内面はサムライ的気質を持つしじみさんと、実は乙女チックな私との読み方の違いが浮き彫りになりました。
あ、そういえば、しじみさん主演の映画『終わってる』は本日から公開開始です。ぜひ見に行ってください。
3/18までポレポレ東中野にて連日21:10からです。
http://www.artport.co.jp/movie/seishun-h/
『修身論』編がターニングポイントになったのか、しじみさんは以前にもまして堂々として来て、『せつないかもしれない』も新展開を迎える予感大です。
さて、僕もいま笹幸恵さんの『「日本男児」という生き方』(草思社)読んでいます(未読の方は画面左「最新刊」クリック!)。
ちゃんとした感想はこの本をテーマにした4月の道場の時までに何度か熟読してからにしたいと思いますが、読んでいて、男子と女子の違いについて改めて考えさせられました。
そういうのって、いつ頃から意識するのかなって。
笹さんの昔付き合った男性が、付き合う前、普段はひねくれ者でふんぞりかえって友達にもなりたくないタイプであったのに、ある時暴力事件に巻き込まれそうな状況で咄嗟に自分を守ってくれた行動で、瞬時に状況を先読みした判断力を感じて、惚れてしまったという記述がありました。
つまり、最初はコミュニケーション自体取れるかどうかすら不安だったのにもかかわらず、たぶんその彼の、子ども時代や若い時から五感を使って色んなものにぶつかったり失敗したりしながら育んだものが、フッと頭をもたげて笹さんを惹きつけたのではないかと思います。
身近にいながらストレンジャーな存在と、距離を感じたりある時ふっとその人がわかった気がしたり……という振幅がときめきを生むのでしょうか。
先日こちらでも告知させて頂いたイラストレーターのチムニーさんとのひなまつりイベントの際、読書会的にテーマとして選んだのが、1951年に文部大臣賞を受賞した児童文学『ノンちゃん雲に乗る』なのですが、この本も女の子の視点と男の子の視点の違いが浮き彫りになっていくお話です。
ひなまつりが終わって一カ月もたつのにまだおひなさまを片づけられない小学生の女の子・ノンちゃんが、ある日川に溺れて、臨死体験のように、雲の上でひな壇の翁が実体化したようなおじいさんと出会う・・・というお話です。雲の上のおじいちゃんは子どもたちの話を聞いてくれます。
ノンちゃんは、東京から郊外に越してきた子で、お嬢様育ちなので周囲からは一目置かれている優等生です。今度「級長」に選ばれることにもなっています。
より幼い頃は重い病気をしましたが、いまは元気で、いまだに自分の体調を気遣う大人たちにもどかしい思いすらしています。
ノンちゃんは、自分のおにいちゃんのことを「よくばり」だと言います。
見るもの聞くもの、みんな欲しがるおにいちゃん。お母さんの見ていないところでは、妹のおやつまで欲しがるのです。そして、なんでもかんでも買ってもらいたがります。
また同じクラスのいじめっ子の長吉は、ムギ畑のムギを引っこ抜いたりします。先生にそれを言い付けると、登下校の途中で石を投げてきます。そんな長吉も雲の上に来ていて、おじいちゃんはどっちの味方もしないでニコニコ笑っています。
ノンちゃんからすれば男の子は乱暴で、ガサツで、欲張りです。
おにいちゃんは、おかあさんがおばあさんの還暦お祝いのために縫っていた座布団を汚れた足で台無しにしてしまいます。食べたいお菓子や遊びたいおもちゃがあると、心は飛行機のように飛んで、下に足跡が付いた事など気にもしていないのです。
男の子は飽きっぽく、すぐ次のことに関心が移ったり、ひとつのことをやりながら他のことを考えていたりします。
そして成績が悪かったり、いけないことをして怒られ、反省したり恥ずかしく思ったりしても、また同じことを繰り返します。
けれども話を聞いていた雲の上のおじいさんは、それは雲のようにスプリングが効いてる坊主たちだからだと、嬉しそうに笑います。恥をかいたり反省しても、その「へこみ」がすぐ直ってしまうのは彼らの柔軟さだというのです。
むしろノンちゃんの優等生的態度を「杓子定規」だと指摘します。勉強がなんでも出来るノンちゃんに対し「そういう子は、よくよく気をつけんと、しくじるぞ!」と言います。
そして、おにいちゃんや長吉のような男の子の気持ちを、こう表現します。
空や花や鳥や、川やさかなや草や木や、人間や犬や、飛行機や自動車やそういうあらゆるものが、自分に働きかけてきて、学校帰りにも、「もう酔っぱらったようになり、まっすぐなんか歩いちゃおれん」状態になり「あっちへひっかかったり、こっちへ寄りこんだりする」。それが元気な男の子なんだ、と。
やがて下界に戻ってきたノンちゃんは、お母さんや周囲の人たちに、自分が雲の上に行っておじいさんと会ったことをうまく話すことが出来ません。
川にはまって助かったノンちゃんが臨死体験のような話をしていると不気味に思ったおかあさんは、「もうやめて!」と話をさえぎってしまいます。
同じように雲の上から帰ってきた長吉が、学校でもあえて黙っているのを見て、ノンちゃんもそれが正解だと思います。
本の大半の分量が終わったこの時点で、作者の石井桃子は意外な事実を知らせます。
実はいままで語ってきた物語は、十数年も前のことだというのです。
あれからおにいちゃんは中学に行き、思春期を迎えたためか急にだんまり屋さんになります。やがて戦争に行きました。
遊びの延長ではなく、戦いのために空を飛ぶことになったおにいちゃんですが、 「そこには、若者の血をわかす冒険もたくさんあったようです」。そう作者は書きます。
おにいちゃんは、とうとう一度も妹のように級長にはなりませんでしたが「男の子を待っている難関を粛々として突破」して、大人になりました。
そしてノンちゃんに、戦争で空を飛んだ時に雲を突き抜けた話をします。ノンちゃんの耳には、おにいちゃんがいつか自分は、星になるのだと言っているように聞こえました。
しかし戦争は終り、おにいちゃんは星になれずに帰ってきます。
まだ旅客機など一般人には縁遠い時代、戦争が終わると飛行機に乗ることもなくなったおにいちゃんたち。作者は執筆当時の日本を「ツバサを失った国」と書いています。
ノンちゃんは、自分もかつて行ったはずの、薄れかけた雲の上の思い出をたしかめたくなりましたが、あの時一緒に行ったいじめっ子の長吉の方は、もうこの世の人ではなかったのです。
長吉は子ども時代、雲の上から帰って来てからはノンちゃんに石を投げるようなこともなくなりましたが、その代わり接点もなくなってしまったのか、ろくろく口もきかずにお互い大人になって、やがて彼は戦死しました。
ノンちゃんが、いつか自分の子どもが出来たら雲の上の話を最初から最後まで聞かせてやろうと決心するところで、小説は終わります。
この物語は、前半では、女の子のノンちゃんから見た男の子のデリケートでないところや、足りないところが指摘されます。
しかしその男の子たちの少年時代も、彼らが深みを増した「いい味の大人」に変貌していく前段階として存在していることがエピローグの中で髣髴とさせられます。
『ノンちゃん雲に乗る』作者の石井桃子さんは、どちらかというと激化する戦争とは距離を置きたくて、児童文学を書いたと語っています。この作品は草稿段階までは戦中に書かれていたそうです。エピローグ部分は戦後の出版時に合わせて書かれたのかもしれません。しかし、戦後的価値観で厭戦を唱える自由があったのにもかかわらず、この物語からはそういう皮相的な時代性には囚われないものを感じさせます。
少女を主人公として描きながら、実は女性から見た「男という不思議な生き物」についての本、あるいは戦争に行った男たちへのラブレターのようにも感じられます。
ホンのつかの間、同じ世界を見ることが出来ても、別の世界に住んでいる存在。
男と女は、居ながらにして、いつも「織姫と彦星」なのかもしれませんね!