11月29日、議会開設120年記念式典での国会議員らの目に余る非礼ぶりには、呆れ果てた。
天皇陛下の臨御を仰いだ式典中、自民党の逢沢国対委員長の携帯着信音がなり、秋篠宮殿下より遅れて議場に入った議員が十数名もいたという。
極め付きは中井衆院予算委員長の「暴言」。
例によって欠席した共産党は論外だ。
国会議員はどこ迄劣化して行くのか。
だが彼らは我々国民の鏡に過ぎない。
省みて慚愧するところあらねばならない。
改めて皇室の尊厳の憲法上の根拠について、いくつか先学の見解を紹介しておく。
和辻哲郎『国民統合の象徴』
「天皇が…他のあらゆる成員と異なるところは、他の何人もが国民の全体性を表現しないのに対して、天皇のみがそれを表現する地位にあることである。
…この事態のうちに天皇の中枢的意義を読みとるならば、天皇が日本国民統合の象徴であるという規定は、この中枢的意義を言い現したことになる。
天皇は日本国民の全体意志の唯一の表現者である。そうしてその全体意志が主権を持っている。
してみれば、天皇は主権的意志の唯一の表現者である」
美濃部達吉『日本国憲法原論』
「国民は天皇を国家の姿として国民統合の現れとして仰ぎ見るべきことが要求せられるのである。
それは単に倫理的感情的の要求に止まるものではなく、憲法の正文を以て定められて居るのであるから、必然的に法律的観念たるもので、即ち国民は法律上に天皇の御一身に対し国家及び国民統合の現れとして尊崇すべき義務を負うのである。
国家の尊厳が天皇の御一身に依り表現せられ、国民は何人も其の尊厳を冒涜すべからざる義務を負うのである」
葦津珍彦『天皇制への疑問と解答』
「いかなる国に於ても、国家意思は唯一つであり、主権者の意思は唯一つである。
それでなくては国は分裂し、法の体系は立たない。
この権威ある意思の主体を主権者とよび国民と称するのである。
それは目で見ることのできない一つの観念的な存在としての国民である。
…目に見える個々の国民は、統治される国民である。
天皇が゛国民統合の象徴″といわれるのは、この目に見えない一つの国民の姿を、目に見える姿で現すのは、ただ天皇御一人に限られるという意味である。
…国会の議場に陛下が行かれると、国民代表の議員が、陛下の前で敬意を表する。
陛下御一人が主権者を象徴されており、議長以下の議員は、主権者ではなく統治される国民の代表者として立っているのである。
国会議場での開院式の状況が、憲法法理がしめす主権在民、天皇象徴制の姿なのである」
この度の議員らの非礼と失態は、皇室への不敬であることによって、そのまま国家の尊厳を汚し、主権者たる国民を冒涜する振る舞いだったのを銘記すべきだ。