文藝春秋の『日本の論点』平成23年度版をとびとびに読んでいたら、田原総一朗氏の一文に目が止まった。
タイトルは「『
日本は侵略国だ』
という呪縛にとらわれる前に考えるべきことがある」。
その論旨はともかく、用語法に興味を持った。
先の大戦について、「大東亜戦争」との呼称で統一しているのだ。
それも「」に包んで、いわゆるーーというニュアンスを持たせることもしていない。
そのまま普通に大東亜戦争と呼んでいる。
初出に当たっては「大東亜戦争(戦後、アメリカが太平洋戦争と名付けた)」としている。
アメリカ国内で対日戦争を太平洋戦争と呼ぶのがいつ頃からなのかは知らないし、開戦に際して我が海軍が戦争名として太平洋戦争を提案していたような経緯もあるようだが、我が国の正式な呼称は勿論、閣議で決定された大東亜戦争。
それが敗戦後、占領下に禁止され、太平洋戦争に置き換えられて行ったことについては、近くアップされるはずの「高森ウィンドウズ」でも簡単に触れた。
今も教科書、新聞、テレビ、雑誌など一般の人々が目にする場所では、殆ど「太平洋戦争」で統一されていると言ってよいだろう。
靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」の勉強会にお越し頂き、貴重な体験談を語って下さる戦友の方でも、戦後65年を経て、普通に「太平洋戦争」という呼称を使われるケースが結構ある。
新人物往来社の『歴史読本』が平成20年9月号で「論点検証・大東亜戦争」との特集を組んだのが、珍しい例外ではないか。
だから残念ながら、大東亜戦争という言葉を使っただけで、「右翼的」との印象を、今も与えてしまうのかも知れない。
善悪は別として、少なくともそうした懸念には十分、根拠があるだろう。
だからこそ、何とかして微力乍らそのような言論状況を転換したいと、考えて来た。
ところが田原氏という、どこから見ても右翼とは考えられない、かなりメジャーな表現者が、『日本の論点』という、これまたメジャーな舞台で「大東亜戦争」を普通に使っているではないか。
彼が以前、上梓した『日本の戦争』(小学館)では太平洋戦争で統一し、初出に「太平洋戦争(当時は大東亜戦争と称した)」と書いていた。
いつの間にか太平洋戦争と大東亜戦争の扱いが逆転したようだ。
私は、田原氏のことを、必ずしも悪い意味ではなく、機を見るに敏な人だと思っている。
その彼が、こうした転身を見せたことは、田原氏個人がどうこうということ以上に、少し勇気づけられる事実だった。
なお、同書で田原氏と同じ「戦争を若者にどう伝えるか」とのテーマで筆を執っているのは、我らが笹幸恵さん。
タイトルは「戦争責任や謝罪より先に、戦後生まれの私たちにはするべきことがあるはず」。
これはぜひ読むべし。