先日のニコ動でのひろゆき氏とのトークで小林よしのりさんがショックを受けていたことは、僕にとってもショックでした。
ひろゆき氏は、名作『生きる』を含め、黒澤明監督の映画を見たことがないと言いました。
これがひろゆき氏個人の話だったらまだいいのですが、その日視聴していた多くの人が「自分も見ていない」という結果が出たことには驚きました。
「だってテレビとかでやってないじゃないですか」というのがひろゆき氏の言い分でしたが、それを聞いて、若者との断絶を感じたと小林さんは言います。
「黒澤明の代表作は、当然の教養の範囲だと思っていた」と。
しかし、遠い昔に見た『生きる』の記憶をたどりながらも、懸命に話す小林さんに、ニコ動の視聴者からも「いい話だ」「見てみよう」という声が多数寄せられました。
ちゃんと話せば、通じる。
しかし、共通の基盤がない。
僕はいま40代ですが、ちょうど高校生から大学生になる頃、黒澤映画のテレビ放映解禁の時期と重なり、『生きる』も『七人の侍』もその時に見ています。放映の翌日には学校のクラスで話題になったことも覚えています。
そして現在、CSでは毎日日本映画の名作が放映され、黒澤映画も頻繁に見る事が出来ます。外国映画を含め、影響を受けた新しい映画が出来た時にその偉大さが振り返られることも珍しくありません。
だから自分の中では、若い人にとってそれがスポイルされた情報になってしまっているという落とし穴に、自覚的でなかったのです。
「だってテレビとかでやってないじゃないですか」という言葉には、虚を突かれました。
テレビでも映画館でも無数に新しい作品が供給され続けています。それらはいまの若者たちにとって見やすいテンポやリズムを取り入れています。
その中で、いかに映画界の「天皇」と言われた監督の作品といえど、触れる機会自体が遠のいてしまっているというのは、たしかなのでしょう。
実は先日、『せつないかもしれない』の後に渡部陽一さんの『戦場からこんにちは』の収録があり、両番組の出演者と小林さんとで少々四方山話をしたのですが、『せつないかもしれない』のしじみさんも、『戦場からこんにちは』の女子大生・荒井さんも、また同行された荒井さんのご友人も、その場にいた20代のみんなが、『生きる』を見たことがないというのです。しじみさんは『七人の侍』を前に見たけど古い印象で付いていけなかったと言います。
社会意識が高く、教養一般に関しても決して無関心でない荒井さんたちや、あまつさえ女優であるしじみさんでさえ、そうなのです。
テレビでもやっていない日本映画の名作なんて、たまに偶然見ても古めかしい感じがするというのが、普通なのです。
そんな中で、たとえば私のような人間がやるべきことは、若者は見やすいものにしか飛びつかない・・・・・・などと嘆いてみせるより先に、あの日の小林さんのように、その映画から得たものや、自分の人生観に浸透したものを飾りない言葉で語っていくということなのだと、批評家として自戒を込めて思うのでした。
文化はいつの間にか受け継がれるものではなく、自ら語り、残していかねばならない。
それは夏目漱石や太宰治などの近代文学であっても、同じことです。
それにしても、先日小林さんが語った『生きる』のストーリーは、僕が昔実際に見た映画の印象より面白かったです。
また小林さんからは『生きる』と『七人の侍』に共通するある面について示唆を受けました。それは小林さんのあり方と深く結びついていました。
ご本人の手でいつか書かれるかもしれないので、ここでは黙っておきます。
私も映画批評家として、負けないようにしなければと、思った次第です。
しかし第8回ゴー宣道場ゲストの砂澤陣さんは、生前の黒澤明監督に直接会って映画の話をいろいろ聴いたそうです。
そんなことを何気なくポロッと言う砂澤さんに「この人、何者?」と思ってしまいました。アイヌ文化と黒澤映画の結びつきがあるのか? それとも砂澤さん個人の芸術としてのリンクなのか?――民俗文化との関係においても、興味はつきません。