小林よしのりさんの23日のブログ「『ゴー宣道場』重大な決定」を読みました。
https://www.gosen-dojo.com/?page_id=19
そして、今度私が基調講演をさせていただく第7回で、『ゴー宣道場』のひとつの形が最後になることを知りました。
「近々、骨法道場から独立して、『ゴー宣道場』を開催していかねばならないと、わしは考えています。」
小林さんの宣言は、いままで道場に参加してきた人間にとっては、ショックかもしれません。
私自身は第3回からの参加ですが、骨法道場の中で床に座り、講師陣を注視するのを背後左右から道着を着た皆さんが見守っているあの空気は緊張と安心感に満ちていました。
入り口で「こんにちは!」と道着を着た方が率先してご挨拶下さり、こちらも交わさせて頂くと、もう自分は都会の中で、人とすれ違っても挨拶もしない<砂粒の個人>ではなく、この中では道場の主体的な参加者なのだ、という気合を入れられた気がします。
第5回で靖国会館が会場だったことはもちろんとても貴重な機会でしたが、第6回で骨法道場の空気の中に戻った時、「帰ってきた」という気になったのも事実です。
いつも東中野駅の改札から立って下さっている骨法道場の方々は力強く、礼儀正しく、安定感とともに、精神面鍛錬面で遠く及ばない私のような者でもついでに浄化されたような気分になっていました。
それも掘辺正史先生以下、道場生の皆さまの普段の研鑽というベースの上にあるものなのですね。
「甘えちゃいけない」という小林さんのご姿勢、私も身を律して受け止めたいと思います。
今後どのような形で継続されるのか、小林さんの移される行動に注視しつつ、私でも出来ることは尽力してまいりたいと思います。
ところで皆さん、月刊WiLL「本家ゴーマニズム宣言」出ましたね。
「第6回ゴー宣道場」が紹介されていました。加藤紘一さんの、「地域ふれあい学区制」という名の細胞活性化論に改めて注目させられました。加藤さんの、「県」とは鵺のようなものだという話が、道州制への批判とどのようにリンクするのかなど、興味は尽きません。
自然と僕の頭は第6回の時にタイムスリップしました。
あの時、挙手をされた方の話を、時々思い出します。
その方は学校の先生で、行事等で君が代斉唱を行う時、二十人近くいる同僚のほとんどが口パクで声を出さないそうです。彼らは起立しないと罰せられるので立ってはいるそうなんですが……。
それは、なんと寒々しい光景なのでしょう。
ちゃんと歌っているのは挙手をしたその方ともう一人の先生だけ。「ちゃんと歌おうよ」と周囲に呼び掛けているけれど、反応は鈍いということです。
国家を歌う厳かな場所でさえ、多くの者の気合が入らず、入れようとしても空回り……。
これは僕の憶測にすぎませんが、歌わなかった二十人近い先生の全員が、君が代に反発していたり、左翼的な考えを持っているわけではないんじゃないかと。
起立はしているから違反ではない。それ以上個人がなにしようと勝手だ。干渉して自分が浮くのは嫌だ。これみよがしに熱唱するのは馬鹿らしい。声出して歌うのなんか恥ずかしいじゃないか。
そんな中で、「ちゃんと歌おうよ」と呼び掛ける先生が、逆に浮いた存在になってしまう。
この人の発言は、加藤紘一さんによる、いま日教組は全体の2割しかおらず、問題とするに足らないという認識に対してされたものです。
つまりたとえ全体の二割でも、強い意見を持っている者には、引きずられてしまう。
僕は以前加藤さんがおっしゃっていた「強いリベラル」という言葉を思い出しました。地元社会の「共同性」の中で個人の、たとえばモンスターペアレントのようなわがままな意見を周囲からきちんと正された上で、それでも浮上する、地に足のついた「リベラル」がある、と。
それは裏を返せば、たとえばモンスターペアレントがまかり通ってしまうのは、そうした共同性がなくなったからともいえると私は思いました。
それは、二割しかない「君が代斉唱サボタージュ」にさからえないことに通じているのではないでしょうか。
そう考えると、一部の世界の特殊な事例ではないと思えてきます。
骨法道場の中で、小林さんの表現でいえば「赤ちゃん」のように庇護された上で、共同体の中での主体性を身につけられたような気がしていた私たちですが、では一人ひとりの日常の中で、いかにそれを身に付け、身近に呼び掛けていくことが出来るのか。
きっと、参加者の皆さん個々の生きる「現場」の中に、自分から試みていることもあるでしょうし、うまくいかなかったり、壁にぶつかることもあったと思います。その具体的な現場から立ちあがってくるものを知ることで、今度の第7回もまた、楽しみながら知ることの多い場となると思います。
ぜひ、そんなご自分の生きている場所の話を、最後となる骨法道場の会場で聞かせてください。