よしりん先生からのメッセージです
8月8日(日)の靖国会館で、
わしが「『べき論』を超えよ」と言ったことから、
大きな勘違いが蔓延しているような気がします。
直後に参加者に書いて頂いたアンケート、
会員同士で行われているメーリングリスト、
わしの知人たちの感想、
そして昨日の高森さんのブログなどを見ていて、
危機感を抱いたので、指摘しておきます。
「べき論」を超えるのが「行動」であり、
あるいは「運動」ならば、
議論なんか止めてしまえばいいのです。
このような考え方は
『ゴー宣道場』そのものの否定です。
議論を積み重ねて公論を生み出そうという
『ゴー宣道場』の試みを信じられないのならば、
どうぞ「行動する保守」になればよろしい。
わしは一概に
すべての「運動」を否定はしません。
「大切な運動もある」
これは言っておきましょう。
しかしもっと大事なものは、
自分の「現場」です
あなたは自分の「現場」を持っていますか?
生活は何によって支えていますか?
一番、守りたいものは何ですか?
「運動」は非日常です。
日常は「現場」にあるはずです。
少し踏み込んで言ってしまうと、
穏やかに行動し運動するのも、
ラジカルに行動し運動するのも、
わしの目から見れば大した違いはありません。
良い運動も、悪い運動も、
主観で決めるしかないでしょう。
保守系の運動は良い運動で、
左翼系の運動は悪い運動なんて、
そんな身勝手な論理はないと思います。
「議論では埒が明かぬ。大集会開いて政府に圧力をかけろ」
「議論では埒が明かぬ。外国をけしかけて外圧で我が国を謝罪させろ」
「議論では埒が明かぬ。朝鮮学校に押しかけろ」
「議論では埒が明かぬ。政治家をテロでやっちまえ」
「議論では埒が明かぬ。サリンを撒け」
これらは
「議論」に限界を感じた者たちの直接「行動」ですし、
主観的には正義の「運動」です。
いずれにしてもそれは「非日常」ですし、
我々が目をそらしてはならないのは
「日常」です。
日常を送る生活者の方々が、
我々道場主(講師陣)を見るときに、
考慮しておいていただきたいのは、
あなた方の目の前で講釈を垂れている者たちは、
「非日常」を生活の場として生きている
「異能」の者たちであるという事実です。
我々を絶対視しないでほしい。
わしはもちろんのこと、
堀辺師範が「異能」なのは
誰の目にも明らかでしょう。
わしと堀辺氏は一直線に
自分の価値を求道してきた者ですし、
「非日常」が仕事であり、
生活になっている異能の存在です。
笹さんだって、
「いつも戦争のことを考えて」いて、
「遺骨収集にジャングルの中に入って行く」
女性なのだから、異能です。
結婚でもすれば変わるのかもしれませんが、
今の生き方を続けていけば、
異能の存在となってしまうのです。
高森さんも凡人のように見えて、
幼少時代の環境から
民族派としての各種の運動に関わっている人です。
異能の部分が大きいのです。
そうでなければ、
あれほどの勢いでわしの昇殿参拝の所作を
叱責するようなことはあり得ません。
あれは自分の神聖なテリトリーを
冒した者への叱責でしょう。
わしはなんだか、今後、
昇殿参拝するのが嫌になりましたよ。
特訓してからでないと出来ないということが、
わかったからです。
これは高森さんに対する批判ではありませんよ。
わしも「裸の王様」にならぬように、
仲間からチェックされていなければなりません。
でも高森さんはあんな顔してて、
実は恐いよと声を大にして報告しておきます(笑)
彼は異能です。
宮城さんが一番、
生活者に近いような気がします。
沖縄県民なのでリベラル傾向は大ですが、
生徒大好きな優しい学校の先生です。
『ゴー宣道場』の参加者は、
単純にお勉強がしたいのなら、
大学に行けばいいと思います。
専門の学者の講義を
ノートにとればいいと思います。
これはわし個人の意見だけれど、
道場の議論の最中、
ノートなんかとらなくていいと思うんだよね。
ただ楽しんで熱中していればいいと思うんだが。
『ゴー宣道場』は、
やはり日常では会えない異能の者たちと話せる
「非日常」の空間だと考えておいてください。
『ゴー宣道場』は、
学者を含む異能の者たちが、
それぞれ現場を持つ、
あるいは今は学生だが
いずれ現場を持つ者たちと共闘して、
「あくまでも公論にまで昇華させることを
目標にした議論を行う場」
なのです。
「自分の言葉で話す」訓練ができれば、
必ず各人の意見は、
わしら異能の者たちに影響を与えます。
逆に我々道場主たちが、参加者各人の、
型に嵌った思考パターンを突き崩すことで、
生活者のニヒリズムを超える情念を
掴み出すこともあるのです。
わしはあくまでも
「議論の質として」、「べき論」を超えよ
と言うつもりでした。
そこに教科書運動や
政治家との接触まで付け足して、
自分の非日常な行動を話してしまったことが、
大失敗でした。
あれで笹さんの闘志に火がついて、
「評論家になるな。行動せよ。」
としか取れないような発言を行ってしまったのも、
わしの責任です。
その失敗を修正するために、
わしは終盤で説明しました。
「べき論」を超える試みは、
まさにこの『ゴー宣道場』でやっていると
でも、その意味はあまり
人々に伝わらなかったようで、
あとの祭りでした。
「僕も私も、何か行動を起こさなければならないのだろうか?」
「一体何をすればいいのだろう?」
と混乱してしまった方もいたかもしれません。
しかし宮城教授が
「現場での闘い方」の話をされましたよね
堀辺師範が
「私に徹することが大事だ」という話をされましたよね
あれが大事なのです。
あれが『ゴー宣道場』のモットーであることに
変わりはありません。
日常性に耐えられずに性急になって、
「行動せよ」と言い出すのは、
戦前の軍部の思想傾向に似ています。
「統帥権干犯」を盾に
議会制政治(議論)を否定する、
テロの時代を肯定する心性に
近づいてしまいます。
それで戦争のことを考えたと言えますか?
わしは『ゴー宣道場』における
議論の力を信じています。
沖縄問題などはその白眉でした。
たった4回であそこまで到達できるとは
思わなかった。
それも
講師と参加者が一体となって生み出した
劇的なものでした。
その議論の様子は、
8月26日発売の「WiLL」で描いています。
わしは『ゴー宣道場』で生み出した議論が、
必ず世の中に影響を与えていく
という意気込みを崩しませんよ。
「べき論」を超える議論をしましょう。
りっぱなことを言えと
要求しているのではありません。
「自分の言葉で話そう」と言っているのです。
最後にもう一度、念を押します。
「べき論」を超えるものは
「行動」や「運動」ではありませんよ
自分の言葉で話すことです