昭和50年10月31日、昭和天皇は記者会見で
原爆投下について次のように述べられた。「原子爆弾が投下されたことに対しては
遺憾には思っていますが、こういう戦争中で
あることですから、どうも、広島市民に対しては
気の毒であるが、やむを得ないことと思っています」
(高橋紘氏『陛下、お尋ね申し上げます』)天皇というお立場による制約と、
日米関係へのご配慮の中で、ギリギリの表現だろう。日本は核拡散防止条約に昭和45年2月に署名した後、
6年後の昭和51年6月に批准している。
この批准に際しては、昭和天皇のお気持ちを体した
当時の衆院議長·前尾繁三郎氏の働きがあったらしい。前尾氏は後(昭和56年7月7日)に、
次のように証言していた
(平野貞夫氏『昭和天皇の「極秘指令」』)。
「ロッキード国会を両院議長裁定までやって正常化したのは、
じつは核防条約のためだった。というのも、
国会報告で天皇陛下(昭和天皇)にお目にかかるたびに、
核防条約のことを聞かれていたからなんだ。
陛下は、外国の元首とお会いするときに
かならずといっていいほど話題になる核防条約の
承認について、ずいぶん気にしてらしたんだ。
唯一の被爆国として、5年も署名したまま
放置していたことに、相当お心を痛められていた様子だった。
あの年は12月で任期満了か解散というときだったし、
議長としての最後の仕事だと思っていたんだ」ところがその後、昭和天皇ご自身が核武装の必要性を
顧慮されていたことを窺わせる、
貴重な証言がある(勝田吉太郎氏『核の論理再論』)。「岩見隆夫·毎日新聞特別顧問が『政治よもやま話』と
題して京大法学部同窓会でおこなった講演。
岩見はそこで注目すべき昭和天皇のご発言を物語る。
…(昭和57年=1982年に起きたフォークランド紛争より
少し前のこと)某防衛庁長官がご進講に参上。その折、天皇から『日本は原爆を持たないでいいのか』
とご下問があった。
長官は、『これは絶対にオフ·レコにしてくれ、
記事にするのは、自分が死んだ後にしてくれ』と
何度も岩見に頼んだという。
(『有信会誌』2006年第48号、16ページ)」この時期の「防衛庁長官」といえば、かなり絞られる。
しかしその詮索はともかく、岩見氏の経歴に照らして、
これはそれなりに信憑性のある証言ではあるまいか。(了)
追記
②の2番目のセンテンスに
「長崎医科大学病院にお見舞いにて親しくなられた」
とあるのは操作ミスによる誤りなのでお詫びして
以下の通り訂正する。→「長崎医科大学病院にて親しくお見舞いになられた」
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