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大須賀淳
2024.10.13 22:02その他ニュース

「平和」と「安寧」 

「平和」という語に漂う違和感の正体と向き合うため、語源にあたってみました。

いくつかの資料をあたってみた所、平和という語は「Peace」(およびラテン語のPax)の訳語として明治に作られたそうで、冗談みたいな話ですが既にあった「和平」をひっくり返したものだそうです。

この説明が完全に正しいか深くは追求していませんが、それを見て冒頭に挙げたような「違和感」の正体が少し見えた気がしました。

「和平」は紛争を早々に停止するために行われる、妥協も大いに含まれたかりそめの産物。それは本質的に不安定なもので、いつ破られても不思議のない、常に不安がつきまとう概念です。

それ故に、その派生語的な「平和」にも、共通した不安定感、おぼつかなさを感じるのかもしれません。

大東亜戦争の「戦後」になって日本にもたらされた「平和」も、結局は「旧交戦国の事実上の属国」になるという妥協(と言って良いレベルか不明ですが)の産物であり、あろうことかそれを肯定する者ほど「我こそは保守であるぞ!」と声を大にするという、非常にねじれた現象まで生んでいます。

「平和」という語が使われる多くの場面において、もっと適当な言葉はないものか?と考えた時、自分の中でいちばんしっくりきたのが「安寧」でした。

安寧は穏やかに治まるといった意味ですが、「安」はもちろんの事「寧」にも安らか、穏やかといった意味があり、「丁寧」にも使われるようにもっと微細にわたる部分まで網羅するニュアンスがあります。

妥協の上で一時的に得るものではなく、もっと長期にわたって心の土台となるような安らぎ。これは、歴史や文化に裏打ちされたものでなくては不可能です。

天皇陛下も、語としては一般に用いられている「平和」を使われますが、実際に祈られているのはきっと「安寧」の方でしょう。

欠史八代中なので実在は不明ですが、第三代天皇の諡は「安寧天皇」。後世、といっても現代日本から見れば古代ですが、最初期の天皇にこの諡が設定されたのは、それだけ「安寧」という概念が天皇と不可分のものだったからとも考えられます。

そして、ここが最も大きい所ですが、

「状態」としては、完全に交戦がストップしているのが前提の「平和」に対し、例え戦地の中にあっても「心の安寧」は存在し得ると思うのです。

核兵器も、一向に無くなる気配のない現実世界。そこを生き抜くために「祈念」すべきなのは、自国の歴史・文化への思いと、独立心に裏打ちされた「安寧」なのかもしれません。
大須賀淳

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