「光る君へ」と読む「源氏物語」第22回
第二十二帖<玉鬘 たまかずら>
「光る君へ」で、三郎と呼ばれた道長が13歳の時に9歳のまひろと出会ったのは978年、道長が物語執筆を頼むために、まひろに会いに行ったのは1004年。実に26年に渡って在りし日の恋が続いているということになります。
光る君のモデルの一人・在原業平の恋愛譚を描く「伊勢物語」には、幼馴染の二人が結婚後、女性の方が経済的に落ちぶれてしまい、男性は一時的に浮気をするも、浮気相手がしゃもじでご飯を器に盛ったのを見て冷めてしまい、元のさやに納まる「筒井筒(つついづつ 丸い井戸の竹垣 この周りで幼い二人が遊んでいた)」の説話があります。
ご飯を盛ったら冷めるというのは、自ら身の周りの世話をするのは品がないという感覚が「伊勢物語」の語り手にあったということ。「光る君へ」で、まひろが自ら賢子の世話をしようとして乳母に止められていたのは「伊勢物語」の語り手と同じ感覚。その一方、父の為時が職を失った際に、庭で育てた野菜を洗うまひろにときめいていた道長は、想いが持続する上に、自ら道を切り開く女性に萌えるタイプと言えそうです。
今回は、在りし日の恋の形見とのめぐり逢いについてみてみましょう。
第二十二帖 <玉鬘 たまかずら(髪やかもじ(添え髪)の美称。「筋(縁)」の縁語) >
年月がたっても、光る君は夕顔のことを露ほども忘れることはありません。様々な女性と逢瀬を重ねても「夕顔が生きていてくれたら」と残念に思っています。夕顔が「なにがしの院」で物の怪に手をかけられて亡くなった際についてきていた女房・右近は、今は紫の上に仕えていましたが、夕顔が生きていたら、きっと六条院に移り住む女性の数に入っていただろうと悲しんでいます。
在りし日の夕顔は元の頭中将との間に娘・玉鬘がいましたが、正妻に脅されて乳母の元に身を寄せていました。光る君に口止めされた右近は、夕顔の死を乳母に知らせずにいたところ、乳母の夫が大宰少弐(だざいのしょうに 大宰府の次官)となったので、当時4歳の玉鬘は乳母の家族と筑紫へ移り住んでいました。
大宰少弐は任期が終わっても裕福ではなく、帰京できないでいるうちに病気になりました。玉鬘を自分の孫と言い繕って大切に育てた大宰少弐は、三人の息子たちに帰京するよう遺言して亡くなります。乳母たちが京に上れないまま年を過ごすうちに、玉鬘は母の夕顔よりも美しく、内大臣(元の頭中将)の血筋も加わったためか、上品で可愛らしく、気立ては大らかで、申し分なく成長してゆきました。玉鬘の噂を聞いて、恋文を送りたがる者も多いのですが、乳母は縁起でもないと誰一人として相手にしません。
玉鬘は20歳ほどになり、乳母たちと肥前国に移り住みましたが、やはり少しでも由緒ある家柄の人は、大宰少弐の孫の噂を聞いて、うるさいほど恋文を送ってきます。そのなかでも、大夫監(だいふのげん 大夫は五位の通称 監は大宰府の三等官)という権勢の盛んな武士は、乳母の三人の息子のうち、次男を連れてやってきて、強引に玉鬘との結婚の日取りまで決めようとします。「今月は季節の終りで結婚には不吉なので」と乳母が言い逃れをすると、大夫監は帰り際に歌を詠みました。
君にもし心違はば 松浦なる鏡の神をかけて誓はむ 大夫監
君にもし心変わりをしたら どんな罰でも受けようと 松浦の鏡の神にかけて誓いましょう
*松浦の鏡の神 唐津市の鏡神社 御祭神は神功皇后
大夫監を恐れた乳母は、長男の豊後介(ぶんごのすけ)を急き立て、玉鬘一行は逃げるように船で出発し、何とか京に入りました。
京の九条にある仮の宿で過ごすまま秋になり、玉鬘一行は神仏に幸運を導いてもらおうと石清水八幡宮に参詣し、さらに御利益があるように長谷寺に歩いて行くことになりました。玉鬘は馴れない徒歩に苦しみながら、母の顔を見せてくれるよう祈り、なんとか椿市(つばいち 長谷寺参詣の宿場)に辿り着きます。玉鬘の足が痛んで歩けなくなったので一行が仕方なく宿をとると、思いがけず、夕顔の娘に会いたいと、長年願かけを続けてきた右近に出会い、一同は喜びの涙にくれます。右近は玉鬘が美しく成長したのが嬉しく、乳母に感謝するのでした。
右近は早速、六条院で光る君に玉鬘との再会を仄めかします。寝所に入る際に、右近を足を揉ませるために呼んで、玉鬘が夕顔よりも美しいことなどを聞いた光る君は、親として世話をすることにしました。玉鬘は「本当の父君ではなく、どうして知らない人の邸に行かねばならないのかしら」と辛いのですが、乳母たちは「六条院で人並になられたら、父君の内大臣も自然に消息をお知りになるでしょう。親子の縁は絶えたままでは終わりません」などと慰めます。
光る君は六条院の東北の町、花散里の住まいの西の対(にしのたい 寝殿造で中央の主人の住む寝殿と渡殿(わたどの 渡り廊下)で繋がる西側の建物)に玉鬘を移すと決めて、紫の上に初めて夕顔とのことを打ち明けました。「夕顔が生きていたら明石の君と同じ位には世話をせずにはいられなかったでしょう」という光る君に「それでも、やはり明石の君と同じとはならないでしょうね」と心に隔てを置く紫の上。けれど明石の姫が無邪気に二人の話を聞いている様子が可愛らしく、母親である明石の君が大切にされるのも道理と紫の上は思い直します。光る君は花散里にも夕顔とのことを伝え、玉鬘の世話を頼みました。
十月に、玉鬘は六条院に移り住みます。その夜、すぐに玉鬘のところへ行き、美しい様子を喜んだ光る君は、「こんな娘がいると是非とも人々に知らせて、兵部卿宮(光る君の弟宮)など色好みたちの心を乱して見比べたい」などと紫の上に伝えます。「おかしな親ね。何よりも先に人の心をそそのかそうとするなんて」と応える紫の上に「本当はあなたをこそ、今のような気持ちだったら、そんな風にして色好みたちの心を乱してみたかった。深く考えずに妻にしてしまいました」と光る君は言い、硯を引き寄せて、歌を書きました。
恋ひわたる 身はそれなれど玉かづら いかなる筋を尋ね来つらむ 光る君
夕顔を恋し続ける私は昔のままなれど この娘・玉鬘は いかなる縁を辿って尋ねてきたのだろう
玉鬘のことを光る君から聞いた夕霧は、真面目に弟として接します。豊後介は家司(けいし 親王家、内親王家、摂関家、位階が三位以上の公卿の家政を司る職)に取り立てられました。
年の暮れに、玉鬘の部屋の新年の飾りつけや女房の装束まで、光る君は六条院に住む高貴な女性たちと同じようにしています。「こんなに美しい容貌でも、田舎びたところがあるかもしれない」と玉鬘に新しい衣を贈るついでに、光る君はさまざまに仕立てた衣を皆に分けることにします。衣の染色も上手に行う紫の上は「着る人の容貌に合わせて選んで上げてください」というので、光る君は「さりげなく、人の容貌を推し量ろうとしているのでしょう」と笑って、衣を選びます。
葡萄染(えびぞめ 赤紫色)の小袿(こうちぎ 少し短く仕立てた表着(うわぎ 一番上に着る衣))と流行りの紅梅色の衣は紫の上に、桜襲(さくらがさね 襲の色目(衣を重ねて着た色の取り合わせ)で表地は白、裏地は赤)の細長(ほそなが 若い女性の着る襟のない細く丈の長い衣)と、薄紅の掻練(かいねり 砧で打って柔らかくした絹織物)は明石の姫に。
地味な薄藍色の小袿に濃い紅の掻練の下襲(したがさね 肌着)は花散里に、明るい赤い表着に山吹襲(表地は朽葉 (くちば 赤みを帯びた黄色) 、裏地は黄)の鮮やかな細長は玉鬘に。「内大臣は華やかで美しいけれど、優美さが足りないところは玉鬘に似ているのだろう」と紫の上は推し量っています。
柳襲(やなぎがさね 表地は白、裏地は青)の織物に唐草の乱れ模様は末摘花に。梅の折り枝に蝶や鳥の飛び交う唐風の白い小袿に、濃い紫を重ねた明石の君の衣からは、気品の高さが伺えて、紫の上は面白くありません。空蝉には尼君にふさわしく青鈍色(あおにびいろ 薄く墨色がかった青 喪服の色)の織物に梔子色(くちなしいろ 赤味のある黄色)に薄紫の衣を添えて、光る君は皆それぞれに、元日に着るように文を遣わすのでした。
***
17歳の光る君が、19歳の夕顔と出会い、死に別れてから18年の月日が流れました。光る君は35歳、玉鬘21歳。これから続く玉鬘にまつわる物語は、「玉鬘十帖」と呼ばれます。
大夫監の詠んだ「君にもし心違はば 松浦なる鏡の神をかけて誓はむ」は、「光る君へ」第24回で、筑紫で亡くなったさわ(野村麻純さん)がまひろに宛てた「ゆきめぐり あふを松浦の鏡には 誰をかけつつ 祈るとか知る(行きめぐり 会うを待つという松浦の鏡の神には 誰を心にかけて祈っていると あなたはお思いかしら)」という歌が思い浮かびます。
さわが詠んだのは「紫式部集」に収められた「筑紫へ行く人の女(むすめ)」という紫式部の友人の歌の引用。歌が詠めて、権勢が盛んであっても「伊勢物語」のように、自らご飯を盛るだけで品が無いとされる当時、京の基準で物事を測る玉鬘の乳母からすれば、三位中将の娘である夕顔と元の頭中将から生まれた玉鬘が、京から遠く離れた地で結婚するなど論外。
「源氏物語」の現代語訳をした田辺聖子さんは、玉鬘は大夫監と仲が良く、京での暮らしには馴染めずに肥前に戻ってゆく、というパロディを描いています。明石の君も光る君とは身分違いで六条院に入った女性であり、「身分の壁を越えて」幸せになれるかどうかというテーマは、古今の作家の感性を刺激するようです。
「光る君へ」第33回で、まひろが初めて藤壺に出仕した翌朝、寝過ごしてしまい、同僚から「誰ぞのおみ足でもお揉み(足を揉みにゆく=夜伽に召される)にいらしたのではないの?」と厭味を言われていた場面は、光る君が「足を揉ませる」口実で右近から玉鬘のことを聞きだす描写の様で、職場の軋轢も物語に取り込む強かさを感じました。
玉鬘のように、紫の上を色好みたちの心を乱す存在にしてみたかったという光る君。父親がいる娘を引き取るといえば「若紫連れ去り事件」ですが、当時10歳の若紫=紫の上とは違い、21歳の玉鬘は大人。光る君は夕顔よりも美しい玉鬘を娘として見ていられるのでしょうか。
紫の上が女性たちの衣装を選ぶシーンで、様々な色合いや形の衣から、女性たちの容貌のみならず人柄までを見通そうとするのは、美しくもピリピリとした緊張感が漂います。新参者の玉鬘と明石の君の衣に注目している紫の上には、自分の地位を脅かしそうな女性をかぎ分ける嗅覚の鋭さと、美しさへの自負が伺えます。
第36回は、彰子(見上愛さん)の出産に伴って土御門院に赴いたまひろを、倫子(黒木華さん)が「夜もゆっくり休めるようにと、殿の仰せでしつらえた。ここで思う存分、書いておくれ」と「源氏物語」執筆のための部屋に案内していました。道長との不義の子を産んだまひろが、正妻の倫子のいる土御門院に部屋を与えられたのは、不義によって須磨に隠遁した光る君との子を産んだ明石の君が、正妻のような立場の紫の上のいる六条院の一角を占める妻妾同居的な様相が髣髴とします。
また、彰子が後一条天皇となる第二皇子・敦成(あつひら)親王を無事に出産したのは、道長が将来、天皇の外祖父になるということであり、「源氏物語」で出産に至らなかった紫の上の元で明石の姫が養育されるようになり、光る君が后がね(将来、后になるはずの人)を得たことに反映されているのでしょう。
五十日(いか)の儀(生誕五十日目の祝い)で、まひろと親王誕生を寿ぐ歌を詠み交わした道長には、六条院に后がねを擁して安心し、在りし日の恋の形見・玉鬘を迎えてさらに浮かれる光る君が重なります。
古参の女性たちのなかに、ひと際若く美しい玉鬘…光る君の今後は如何になりますことか。
【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>
第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>
第10回 第十帖 < 賢木 さかき >
第11回 第十一帖<花散里 はなちるさと>
第12回 第十二帖<須磨 すま>
第13回 第十三帖<明石 あかし>
第14回 第十四帖<澪標 みおつくし>
第15回 第十五帖<蓬生・よもぎう>
第16回 第十六帖<関屋 せきや>
第17回 第十七帖<絵合 えあわせ>
第18回 第十八帖<松風 まつかぜ>
第19回 第十九帖<薄雲 うすぐも>
第20回 第二十帖<朝顔 あさがお
第21回 第二十一帖<乙女 おとめ>
紫の上を色好みたちの心を乱す存在にしてみたかったけど、深く考えずに妻にしちゃったなんてことを平然と言える光る君には、苦笑いしてしまいます。
女性たちをひとりひとり評する展開は以前もありましたが、今回は衣装と併せて語られるので、より華やか。しかし紫の上の心情からすれば非常にピリピリしているという、何とも言い難いシーンですね。
こうして玉鬘が加わった物語はどうなっていくのか? 楽しみです!