11/2(土)開催の「ゴー宣DOJO in広島 原爆の悲惨さはなぜ伝わらないのか?」募集開始されました!
広島の資料館には一度行った事があるので、非国民はギリギリ回避…?していると思いたいですが、「原爆の悲惨さはなぜ〝伝わらない〟のか?」という観点で考えた事は、今回のテーマが示されるまでありませんでした。
原爆(核兵器)という存在について考える時、いつも自分の中にある違和感が生じます。
はたして、核兵器は「戦争における手段」の一つなのか?
よしりん先生の「戦争論」冒頭では
「平和とは『秩序』のことであり、その対極は『混乱』という(いずれも)状態」
「戦争は(話し合いによる)外交の延長であり、折り合いがつかぬ場合にやむなく用いる手段」
という定義が示されます。
これに沿って見た時、数十万人の市民が暮らす都市のど真ん中に、一瞬にして全てを消し去ってしまうような兵器を投下する行為を「外交の延長」と呼んでも良いのか?
同じく戦争論の、原爆や東京大空襲について触れた19章では、無差別空爆や核兵器について
「人類の不条理として常に何かを産み出してきた『人間の戦争』の可能性すら奪った罪は大きい」
「もはや世界には『悪魔の戦争』に怯えながらの紛争しか残されていない」
と綴られています。
やはり原爆投下は、日米間の戦争における一つの戦術という枠をはるかに超えた部分で、人類にとっての大きな災いの扉を開いてしまったのだと思います。
そして、ここからはまだ自分の中でも言語化や考えのまとめに至っていない、右脳的な違和感なのですが…
「人間が不条理とまみれる事を奪う」という部分で、核兵器と、ポリコレ・コンプラやキャンセル・カルチャーといった「人権カルト」的観念は、実は奇妙なほど似ている部分があるのでは?と感じるんです。
原爆により夥しい数の人が死んだ、その絶対的な悲惨さはまだ〝伝わりやすい〟のだと思います。
一方、その人達は「戦争(という手段)による死者」と言えるのか?もしかして、多くの人を殺したのは「左翼的な平和礼賛」とも非常に近い人工的な観念なのではないか?その多層的な構造ゆえに「悲惨さが伝わらない」のではないか?
など、色々な問いかけが自分の中で渦巻いています。
今回のDOJOは、「この土地で開催される意味」が過去最大級に大きいものの一つだと思います。ぜひ、会場全体で共に考える一時としましょう!