先日の東京都知事選において、選挙の私的濫用しか考えていない魑魅魍魎のクズ候補共など無視して、是非を問う形で良いのでもっと着目すべきだと思ったのが(=それができない多くのメディアは、本当にダメだと思ったのが)、AIエンジニア&SF作家の「安野たかひろ」候補です。
安野氏の特筆すべき点は、超具体的なマニフェストを、膨大ながらも見やすくまとめたスライドなどの資料をWebサイト(https://takahiroanno.com/)に提示していること。個々への賛否は別にして、他の候補者とは解像度のケタが違うので、これをたたき台に各候補の主張を比較するだけで、色々なものが浮き彫りになった事でしょう(たぶん「構文」で話題の人などは、さらなる浅さが露呈したのでは)。
私は都民ではありませんが、もし投票権があったら、「期待をこめて」安野氏に入れていたかもしれません。
ただ、それは氏の主張する施策への完全な賛同というより、そこに含まれる重要な問題提起が広く公論の俎上にのせられる事を期待してのものです。
安野氏の主張の根幹には「テクノロジーによる直接民主制」と呼べるような提案があります。
(※https://takahiroanno.com/より)
これはシンプルに言えば、都民からの要望や意見をテクノロジーを使って細かく拾い、AI処理などで都政に反映させるというもの。さらっと書くと単に「イマドキな事」に聞こえますが、これは行き着く所「議員」という存在が不要になる可能性さえ持った「爆弾」級のインパクトを持った仕組みです。
私も正直、党利党略や保身を優先して、公を蔑ろにする議員が大勢いる現状に対し「いっそ、機械の方が公正でバランスのとれた判断ができるんじゃね?」といった事を、ニヒリズムと本気が入り混じった形で想像する時があります。
一方、上記のような理由で意味を感じつつ、安野氏のマニフェストには大きく違和感を感じる部分が一点あります。
それは「(今回の場合「東京」という)土地柄、ひいては歴史への思慮が極めて希薄」というもの。もちろん「東京の現状における数値データ」などは用いられているものの、大枠の所では「国や地域を問わない汎用的なシステム」の提案だという印象を私は受けました。
おそらく、そうした部分を「住民からの直接の声」で補うという意図なのかもしれませんが、これには「〝私〟の集合が公になる」という幻想と同種の危うさを感じます。
そこで思い至ったのが、安野氏のマニフェストは現実の「東京」ではなく、YMOの楽曲「テクノポリス」にイメージされるような、テクノロジーに立脚した空想科学都市「トキオ」でこそ実現可能なものなのでは?という事です(沢田研二の「TOKIO」もほぼ同じ時期のリリース(1979年末)なので、「トキオ」はこの頃の流行だったんですね)。
そうした社会が急進的に変化する事に対しては、大きな警戒感(これを「TOKIOアラート」と名付けましょう(笑))しか無いのですが、同時にそこと対峙して掘り下げる事で、9月オドレらの「民主主義に希望があるのか?」というテーマに深く関わってくると考えています。
思想の劣化(正確には「思想することからの逃避」)が極まった先には、それこそ「テクノロジーの奴隷となった方が〝まともな〟社会になる」という、人間という存在の敗北にすら行き着くかもしれません。
民主主義の希望は「テクノポリス・トキオ」にしか無いのか?喧騒が落ち着きつつある都知事選にも、まだまだ(むしろいちばん重要な)語るべき論点が存在しています。
余談
ちなみに今回ネタにしたYMOですが、その楽曲はイメージとしての「テクノロジー支配」とは真逆の、極めて属人的な才能や情念の産物である事も、非常に面白いポイントです。