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2024.7.29 07:00ゴー宣道場

「光る君へ」と読む「源氏物語」 第13回 第十三帖<明石 あかし>byまいこ

「光る君へ」と読む「源氏物語」
第13回 第十三帖<明石 あかし>

 

「光る君へ」第25回は、一条天皇が定子を寵愛し、政を蔑ろにして天変地異が起きていました。一条天皇(980-1011年)が生れる50年ほど前、清涼殿に雷が落ちるなど怪異が多発したのは、宇多天皇(867-931年)に重用された菅原道真(845-903年)が、次代の醍醐天皇(885-930年)に対して謀反を企んだとして、大宰府に左遷され現地で死亡した後、怨霊となったからとされています。怨霊を鎮めるために朝廷の命令で造営されたのが、道真を神として祀る北野天満宮。天変地異は、政と深い関係があると見なされていたのでしょう。

今回は「犯せる罪のそれとなければ」と詠んで嵐を呼んでしまった光る君が、どうなるかをみてみましょう。

 

第十三帖 <明石 あかし(播磨国・現在の兵庫県の地名 「明かし(明るくする)」に通じる)> 

須磨は雨風も雷も止まないまま日が経っています。そこへ紫の上の使いがずぶ濡れでやってきて、京も雨風や雹や雷が止まず、政もできないと怯えて報告しました。光る君は、住吉の神(伊邪那岐命・イザナギノミコトが黄泉の国から帰った後、禊祓・みそぎはらえの際に海中から生まれた三神 海上安全、農耕、産業などの神)や、海の中の龍王などに願を立てましたが、ますます雷が鳴り轟いて落ち、渡殿(わたどの 渡り廊下)が燃えてしまったので、寝殿の後ろにある台所のような建物に移ります。やっと雨風がおさまり、月が昇ると、高潮の跡が残っているのが見えるのでした。

光る君が疲れて少しまどろんでいると、亡き桐壺院が生前そのままの姿で夢枕に立ち「どうして、こんなみすぼらしい所にいるのか。住吉の神の導くままに、早く舟を出して、この浦を去りなさい」と告げました。「お別れしてから、さまざまに悲しいことばかり多く、今はこの渚に身を捨てようかと」と言う光る君に「とんでもない。これは、ほんの少しのことの報いなのだ。私は帝の位にあったときに知らぬ間に犯した罪を償って暇がなく、この世を顧みることができなかったが、そなたが嘆き沈み込んでいるのを見て耐えがたく、海に入り渚に上ってやってきたのだ。ひどく疲れたが、この折に帝に申し上げるべきことがあるので、急ぎ京へ上る」といって、桐壺院は立ち去ってしまいます。

光る君は桐壺院に会えた夢の名残が嬉しく、また会えるかと、わざと寝入ろうとして眠れないまま、明け方になったところへ、小さな舟で明石入道がやってきて、良清への案内を乞いました。光る君は、夢のことを思って良清を会わせてみると、「夢に異形のものが現れて、三月十三日に雨風が止めば須磨の浦に舟を寄せよ、と前もってお告げがあり、この浦に着きました。こちらでも、何かご存知のことがあるのではないでしょうか」と入道は言います。父院の教えもあったので、光る君は入道の舟に乗って須磨を去り、明石の浜辺に行くことにします。入道の娘・明石の君は高潮を恐れて岡の方にある邸に移っており、光る君は心穏やかに浜辺の館に住むことになりました。

四月になり、光る君の衣替えなど、明石入道は何くれとなく世話をしています。光る君が琴を弾くと、入道も琵琶や箏の琴(そうのこと 可動式の支柱で弦の音程を決める)弾き、琵琶の名手である娘・明石の君を、高貴な人に嫁がせたいと、長年、住吉の神に願っていると伝えました。心細い一人寝の慰めにと、光る君が明石の君との逢瀬を望んだので、入道は喜びます。

翌日、光る君は岡の邸に、高麗の胡桃色の紙に書いた文を届けますが、明石の君は気が引けてしまい、入道が返事を書きました。光る君は父親の代筆に呆れつつ、今度はやわらかな薄様(うすよう 薄手の和紙)に美しく文をしたためます。入道に強いられた明石の君が、香をたきしめた紫の紙に、墨つきも濃く薄く書いた手跡などは高貴な人に劣らず、京での恋文のやり取りを思い出すほど。その後も文を交わしつつ、光る君は、良清が懸想していたのに目の前で奪うのが気の毒で、明石の君の方から浜辺の館に来るならばと考えています。

その年、宮中では神仏のお告げが多くあり、怪異が続いています。三月十三日、雷が鳴り、雨風が激しい夜に、帝は夢で亡き桐壺院に睨みつけられました。その後、帝は目を患い、弘徽殿の大后の父・太政大臣になっていた元の右大臣は亡くなり、大后も具合が悪くなってしまいます。帝が桐壺院の意向に沿うように光る君に元の位を与えようとするのを、大后が諫めているうちに、二人の病は重くなってゆくのでした。

秋の浜風に一人寝が侘しくなった光る君は、明石入道に娘を浜辺の館に寄越すよう折々に言っています。入道は岡の邸を輝くばかりにしつらえて、十三日の月が華やかに出る頃、「あたら夜の」とだけ伝えました。

*あたら夜の 「あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知られむ人に見せばや(せっかくの美しき夜の月と花 同じことなら情趣のわかる人にお見せしたいもの)源信明 後撰和歌集」

光る君は夜が更けてから馬に乗り、惟光を連れて岡の邸に出かけると、月の光が射す戸口が、少し開けてあります。中に入った光る君が話しかけても明石の君は打ち解けようとはしませんが、近くにある几帳の紐に触れた箏の琴の音がして、日頃はくつろいで弾いている様子が伺えます。歌を詠み交わせば、伊勢に下った六条御息所を思わせる明石の君は、近くの部屋に入り込んで戸を閉ざしていましたが、いつまでもそうしてはいられません。光る君が逢ってみると、明石の君は気品があって、すらりと背が高く、気が引けるほど趣きがあるのでした。

明石の君と関係を持ってしまった後、光る君は紫の上と歌を交わします。

しほしほとまづぞ泣かるるかりそめの みるめは海人のすさびなれども 光る君
しおしおとあなたを思い泣いています かりそめのみるめ(海松布)・逢瀬は海人の戯れに過ぎないのですよ

うらなくも思ひけるかな契りしを 松より波は越えじものぞと 紫の上
何の疑いもなく約束を信じていたの 末の松山を波は越えはしない あなたは心変わりしないと

*末の松山 宮城県の景勝地 貞観地震(896年)の津波が届かなかったので「波が越えない地」として「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ(あなたをさしおいて 浮気心を私が持てば 末の松山を波も越えるでしょう)よみ人しらず 古今和歌集」など、好んで詠まれる歌枕。

明石の君への愛情は月日が経つほどに増してゆく光る君でしたが、紫の上が可哀そうで一人寝が多くなります。様々に描き集めた絵に、思いのたけを書き付けては、紫の上の返歌を書けるよう仕立てたものは、見る人の心に染みるに違いない素晴らしさで、互いの心が空を通うのか、紫の上も同じように絵を描き集めて、日記のように書いているのでした。

年が改まり、朱雀帝が病気なので世間では様々に噂しています。帝には承香殿(しょうきょうでん 後宮の殿舎の一つ)の女御の産んだ皇子がいますが、まだ2歳の幼さなので、藤壺の尼君が産んだ10歳の東宮に帝の位が譲られることになりそうです。朝廷の後見をして、世を治める政をする人を思いめぐらすと、光る君が今のような境遇に沈んでいるのは、まことに惜しいので、帝は大后の諫めに背いて、七月二十日過ぎに、京へ帰るよう宣旨(天皇の意向を下達すること)を下しました。

光る君は、京に帰る嬉しさと明石を去る悲しさを感じています。明石の君は六月頃から懐妊の兆しがあり、光る君は別れなければならないのに愛情が深まってしまい心乱れます。出発が迫り、光る君が京から持参した琴の琴(きんのこと 弦を押さえて音程を決める)を弾くと、明石の君も箏の琴を合わせました。光る君は、また合奏するまでの形見に琴を置いてゆき、弦の調子が狂わないうちに必ず会おうと、心の限り将来の約束をするのでした。

二条の邸に戻ると、紫の上は美しく成長していました。明石の君のことを話すと、ただならぬ気持ちになった紫の上が、忘れられたことをほのめかすのも、光る君は可愛いと思います。

八月の十五夜に、権大納言となった光る君は帝に召されて参内しました。帝は病で衰弱していましたが、昨日今日で少し気分が良くなり、光る君と泣きながら話し込むのでした。

光る君は桐壺院の追善供養のための法華八講の準備をしています。東宮に逢うと、たいそう大きくなっていて、再会を喜んでいるのを、光る君は限りなく愛しく感じました。藤壺の尼宮にも、少し落ち着いてから対面して、しみじみとした話などもされたことでしょう。

 

***

「光る君へ」で、詮子(吉田羊さん)が「伊周がそこに立って、恐ろしい形相で睨んでいた」と怯え、寝込んだのは、桐壺院に睨まれ目を患った朱雀帝の再現のように思います。光る君が京を離れたのは26歳の3月、宮中に参内したのは28歳の8月で、約2年5カ月、足かけ3年の隠遁生活でした。

伊周と隆家が流罪とされたのは996年4月。詮子の病気平癒のための大赦が適用されたのは997年4月。二人が京を離れていた期間が、光る君よりも遥かに短い1年ほどなのは、菅原道真のように怨霊になるのを避けるためだったようです。

光る君の夢枕に立った桐壺院の言葉の数々、興味深いですね。「どうして、こんなみすぼらしい所にいるのか。住吉の神の導くままに、早く舟を出して、この浦を去りなさい」は、いるべき場所にいない光る君を須磨の浦から去らせ、明石の君と結ばせて、桐壺院の孫・次の帖で誕生する女の子をもうけることに繋がりました。

「これは、ほんの少しのことの報いなのだ。(これは、ただいささかなる物の報いなり)」からは、亡霊になると、生きている者達のこれまでの行状を俯瞰でみることができる、「夫婦の絆」の沙耶的な視点を持てると分かります。桐壺院は光る君に①間男されて気づいていないコキュなのか、②間男されても許すコルネットなのか、というネトラレ問題は、やはり②ということになり、裏切った息子・光る君にルサンチマンを抱かず、「朝廷の後見をして、世を治める政をする」立場に戻す度量の大きさは、まさに「全部だきしめて」と言えるでしょう。

「光る君へ」で、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)が「良いものをお持ちではありませんか」と、道長(柄本佑さん)に告げたのは、いるべき場所ではない場所にいる定子ではなく、彰子を入内させることが天変地異を鎮めるという示唆であり、「犯せる罪のそれとなければ」という言葉をきっかけに起きた「源氏物語」の天変地異も、光る君をいるべき場所におくことで鎮まりました。

「光る君へ」で、宣孝(佐々木蔵之介さん)が「忘れえぬ人からは逃げられまい。自分が思う自分だけが自分ではない。ありのままのお前を丸ごと引き受ける」と、まひろに伝えた言葉も、思わず大書したくなる「全部だきしめて」的な名言。この宣孝のアプローチから「誰かの妻になることを大真面目に考えない方が良いのではと、このごろ思うのです。子供も産んでみとうございますし」と、父・為時(岸谷五朗さん)に伝えていたまひろは、明石の君と対比したくなります。道長との身分違いの恋愛関係から離れて宣孝と身分相応な結婚をしたまひろと、身分相応な結婚を拒否して、明らかに身分不相応な光る君と関係し、懐妊した明石の君。

紫式部が女の子を産む史実がどう描かれるかと思っていましたら「源氏物語」が起筆された伝承のある石山寺での「忘れえぬ人・道長」との逢瀬による懐妊とは。密通した藤壺と、身分不相応な関係をした明石の君という二人の女性の懐妊が、巧みに織り成されているようで脱帽です。

宣孝は、道長との密通を許し、まひろが産んだ賢子に期待するのは、明石の入道にも通います。桐壺院は、藤壺との密通を許し、光る君がもうける女の子に期待している模様。女性による繁栄は「女ならでは夜は明けぬ」日の本ならではですね。

 

【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>

第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>
第10回 第十帖 < 賢木 さかき >
第11回 第十一帖<花散里 はなちるさと>
第12回 第十二帖<須磨 すま>

 

 


 

 

 

さすがは光る君、女性問題から京にいられなくなったはずなのに、隠遁先でもやっぱりそういうことになってしまうのだから、すごいというか、なんというか。
『光る君へ』は、まひろの結婚生活のあまりにも早く突然の終わり、そろてすべての人間関係が大きく動き出そうとしていていて、こちらもいよいよ目が離せません。
次回もどうぞお楽しみに!

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