今週の「このクソ素晴らし世界」は『ルールを破ることは「悪」か』をテーマに配信。
ルールはどうしてルールであり、また、「明らかに不合理なルール」が守られているのはなぜか?たとえばエスカレーター片方空けとくルールや、野球の選手交代ルールを例に、法哲学者のH.LA.ハートの議論やゲーム理論(囚人のジレンマ、ナッシュ均衡etc…)など、
で、この根底にあるのは「利己主義」と「他者への無関心」なんだよね。全体の利益を考えればこうするべきとはわかっちゃいるけど、結果的にはそんなの知ったこっちゃない、となる。そんな厚い壁に自分だけ立ち向かっても馬鹿をみるもん、という。
ルールの適用についても、ルールとは厳格にどの場面でも同じく適用されるべきだ!という形式的正義と、一方で、ちょっとその場面でルール厳格に適用するのかわいそうじゃね?というヒュームがいう”benevolence(慈悲心や人情的ニュアンス)”概念に見る個別具体的な事情をどこまで取り入れるかのせめぎ合いも大変興味深いですね。
逆説的ではあるけど、「ルールへの違和感≒ルール破り」がより適切なルール再設定を生む可能性がある、ルール変更のダイナミズムを生む、ということなんですよね。
しかし、特に日本は教育の過程でルールへの「違和感」を感じるセンサーをいたるところで作動しないように教育を受けていると思います。でも、ルールへの違和感がどれだけ重要か、ということが今回よくわかりました。
このルールへの違和感を集約して、ルール破りに至った「事情=理論」を取り込む形でルールを再設定するということが適切に行われていない!
ルールへの違和感、ルールを破る理由となった「特殊な事情」は、実はそれを集約して全体としてみると一定程度のボリュームを持っていたりもする。
ルールの線引きの仕方は「社会集団」の範囲も確定してしまうとすれば(それは車が走るのが右か左かの地域差から、同性婚や夫婦別姓まで、多岐にわたる)、マジョリティが策定したルールからこぼれている「社会集団」もいるということ(そのこぼれ落ちた人々は社会集団を確定しているルール=法に従う義務があるのか?という遵法義務に発展する)。
ルールへの挑戦や違和感を取り込んだ形でルールを再設定して、「社会集団」の範囲も広げてくことは、民主主義の主語である「わたしたち」を広げていく営みでもありますよね。
わたくし、この”ルールへの挑戦”のダイナミズムが著しく欠けている日本で、一応司法(違憲審査)などに訴えてみてはいるけど、それもあまりにも機能しなければ…革命しかなくなっちゃうYO!
それにしても、「AとBが同じ情況であれば同じく取り扱うべきだ」という形式的正義を基底にした感覚というのは、全員がまっさらな「個人」なのだ、という近代のリベラルな社会が大前提とする価値観だけど、これって裏返すと「なんであいつだけ」という感覚が表裏一体になってしまうので、嫉妬を生みやすくするよね。それが同調圧力とか、相互監視を生むんだなと、リベラルな価値観と弱気人間の調停の難しさを再度痛感しました。
そういうときこそ、benevolence,benevolence……
是非、寒くなってきた週末にご覧ください!
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