村上春樹のデビュー作は「風の歌を聴け」でしたが、皆さん「風の音」と言ったらどんなのを想像します?
ヒュ〜ルリ〜ヒュルリララ〜?(古い)
理屈っぽいことを言うと、風(気流)そのものに固有の音はなく、空気が何らかの物体に衝突した際、そこで生じた振動がいわゆる「風の音」になります。
そしてさらに理屈っぽい事を言えば(笑)「風の音」として認識されているものの大半は、空気と物体の衝突により生じた振動を「第三者が観測した結果」。
ここまでは物理的な現象の話ですが、「公論」を考える際の抽象概念にも面白いように当てはまります。
どんな突風が吹いていても、そこに向かい立つ存在がなければ、多くの人は風の存在を観測できず「無風」と誤認。その結果、風はあらゆるものを倒して壊したり、方向を誤らせたりと様々な狼藉をはたらきます。
皇統問題における「静謐な環境で議論を」などという言説は、まさに「風の存在」を国民に認識させずに、特定の思惑を成就させようとする行いに他なりません。
先日開催した「愛子さまを皇太子に」を始めとする様々な活動も、それそのものが皇室典範などを直接変える力は、当然ながら持ちません。
しかし、「風当たり」を厭わず立ち向かう事で、風と身体の衝突により発生した「音」は第三者(サイレントマジョリティ)に風の向きや強さを認識させ、やがてこの国、この世界の姿を浮き彫りに。それこそが、いよいよ事態を「直接動かす」原動力になるでしょう。
この構造こそが「公論の形成」であり、衝突の忌避や、風上に回る事を「目的」とするような精神性こそが、公(自分はこれを「未来へつなぐための責任と希望」と捉えます)を最も毀損してしまいます。
風に直接吹き付けられている張本人は「ボソボソボソボソッ」という大音響しか聴こえず不安になりがちですが、その外側では、これまで捉え所の無かったあらゆるものがクリアになっています。
目指すは、かりそめの静謐ではなく、エモーショナルな衝突。
それをエンタメで、笑いや情熱や幸福に溢れた形でやる!やろう!