今週の配信は、「近代日本、”忖度”その構造と遺伝子」というなかなかなお題で、日本国が「近代化=国家化」する際に明治憲法制定を通じていかなる正統性付与の物語が語られたのか、を探ってみました。
そこにあるのは、対外的危機を前に国家化=「一体化」を演出するために統治権の根拠とされた「シラス」(天皇の理性)概念。つまり、日本はいわゆる西洋的な近代化=社会契約でも征服(むき出しの実力による統治≒ウシハク)でもない理屈によって統治を正統化したわけです。
ここで問題になるのが、この「一体化」は個人=市民と国家権力との対立の契機を欠いているということです(この「対立」をわかりやすく(?)解説してもらうために、また勝手にピアニストの内田光子が語る「ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾き降りできない理由」動画を流しました★)。
その証左として興味深いのが、当時の民法典論争です。ボアソナードが中心となって起草した”個人主義的”とされた「旧民法典」が施行年月日まで決まっていたにもかかわらず「待った」がかかったのは、学閥的対立を超えたところでの、明治憲法がとった「機軸」たる一体化信仰との齟齬がアジェンダだったということです。つまり、個人主義的で個人と国家の対立構造を内包する旧民法典は明治憲法とは齟齬する、と。つまり、父権を中心とした家族コミュニティにも対立関係はないものとされた。
それが労働争議=労働者の権利闘争の抑圧にまで派生します。政府はロシア革命を受けた労働者の権利要求に対して、様々な建議等で引き締めをはかります。その際に出てくるのが「淳風美俗」という概念。労働者の権利を認めることは社会を分断するのだと、そのような対立はない、とても協調的な風紀が保たれているのだ、という概念です。
対外的にも、大正時代もっとも労働争議があった1919年に牧野伸顕がパリ講和会議で用意していた演説原稿では「労使の対立はない」と。
対外的危機に一体的に対峙するときの哲学や国家の作り方(作り始め方)としてはアリだとしても、その後社会が個人化し、生も多様化していく中で、これは変容を迫られる必要があったのでしょう。そのアップデートができないまま2023年まできて、社会のアチコチに、「淳風美俗」的な対立の隠蔽と一体化の演出があふれていると思います。
家庭では「円満」な親子の三角形が演出され、会社は家族のように和合的パートナーシップ型がいまだにあたりまえ。家族問題の依頼者から「私さえ我慢すれば円満なんです」みたいなこと毎日のように聴きますが、まさにこれエセ淳風美俗、対立の隠蔽ですね。教育もそう。違う行動していると、先生から「おい、まわりみてみろ、おまえみたいな行動しているやついるか?」
そう、対立なんてあっちゃいけないんです、あるべきではないんです(川平慈英風)、という価値観が骨の髄までしみ込んでますよね。
国家はといえば、コロナ禍が顕著でしたが、みんなが同じ方向を向いていると、マスクはずそうもんなら、飲食店の権利を主張して裁判しようもんなら「こんなときに何違う方向向いてるんだよ」
論理じゃないんです(川平慈英風)「みんながそうしてるんだからおまえもしなかったらおかしいだろ」の大合唱。対立が隠蔽されて一体化信仰モリモリになるわけです。これが、「みなまでいうな」➡忖度構造を生みます。
明治開国のイデオロギーをどうアップデートすればよいのか、旅は続くね。
ということで、酷暑なんで、家でぜひご覧いただけるとうれしいです。
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