教育勅語は道徳の啓発を目的として作られたものなので、自己啓発本と似ているのはある種当然と言えます。
そして、基本的に児童向けのものなので、内容自体は解釈の幅があまりない「もっともな事」ばかりで構成されています。
その一方、
・旧仮名遣いや旧字が多用された、現代人には難解な文体
・明治天皇が発したという権威性
・GHQ主導で廃止されたというドラマチックさ
こうした要素により「何か凄そう!なものに感じさせやすい」という特徴があります。
それでいて、中身自体は難しくないので、現代語訳と解説があれば、比較的簡単に理解できる。
これは、「考えるため」ではなく「覚えるため」に本を読む(同時に、読書量と体験が比較的少ない)タイプの人にとっては「凄いものを理解できた!」という、大きな自己肯定感の獲得につながります。
結果として、教育勅語本にハマるタイプの人には「権威性に弱く、与えられた情報を疑わず、自己肯定感を求めている」という属性が多くなる、という現象を生みます。
実はこの属性は、「自己啓発本」と「ネトウヨ本」両方の読者傾向と重なります。
とりわけ、教育勅語に食いつく読者は、歴史系の題材との相性も良いので「日本の優れた歴史、伝統、文化」などをテーマに掲げたコンテンツを売るターゲットとしては絶好の存在となります。
教育勅語は、顧客をいわゆる「ネトウヨビジネス」の導線へとつなげるための題材として最適だったんですね。
この傾向に気付いたのは、以前は自己啓発系のコンテンツばかりを出していた会社が、ある時期から突然、いわゆる「ネトウヨ系」の商品(日本の礼賛、隠された「歴史の真実」、他国へのヘイトetc)を積極的に出し始めたのを見かけてからでした。
気になっていろいろ調べたり分析したりしてみると、自己啓発系とネトウヨ系は集客やリピーター作りのノウハウ、そしてターゲットの「自己肯定感を欲している人」という属性などが、かなり似通っていました。
その会社はきっとこの構造に気付き、ネトウヨ系ビジネスに進出したのだと思います。商売が上手いなあ、と素直に感心してしまいました(笑)
人が何で満足を得ていようと自由なのですが、ネトウヨ系コンテンツは消費者の自己肯定感を高めるために、強い意志や努力を必要とせず持てる属性(「日本人である」「男である」「良家の出である」)を多用する傾向にあり、それが因習の延命や、空虚な優越感に基づくヘイトスピーチなど、目に見える形での害悪を生むことが多い。
その最たるものが、皇位継承問題における男系男子固執ノイズと言えるでしょう。
道徳とは、個と公の関係性への深慮なしに存在し得ないものだと思いますが、その啓発ツールだったはずの教育勅語が、極めて私的な肯定感のために利用された結果、皮肉にも公を毀損する不道徳に加担する構造ができてしまっています。
次回、五箇条の御誓文と教育勅語についてのシリーズ、ひとまずの最終回となるまとめを書きます!