公論サポーター・ムーラNさんの
『よしりん御伽草子』の
感想をご紹介します!!
もうすでにどなたかと重複している部分も多々あるかもしれませんが、『よしりん御伽草子』を拝読した感想になります。
『よしりん御伽草子』、届いた日に一気読み致しました。
まず初めの印象としては、小林先生のヒット作のキャラクターが役柄を変えて昔話を構成している事に、手塚治虫的なとても懐かしい表現の風を感じました。
それは過去にいくつもヒット作を重ねてきた作家にしか許されない特権でもあるので、それだけに懐かしく思えたのかもしれません。正直に言って、羨ましくて仕方なかったです。
アニメの世界で同じ手法が取れるのは、今はもう宮崎駿くらいじゃないでしょうか。
あまりにも美男美女だけで画面が構成される事が当たり前になったアニメの世界において、今やパッと見ただけ、シルエットだけでも判別できるキャラクターは激減してしまって、キャラクターの見分け方はカツラの違い、髪の色の違いくらいでしかわからなくなってしまっているように思います。全員坊主頭にすると、キャラクターが死ぬデザイン世界ばかり。いや、これはただの愚痴ですね。
また、絵本の印刷はフルカラーで紙のサイズも大きく、視界の大部分を絵本で占めるので、大人であっても絵本の世界に充分に没入することが出来ました。
思い返せば、子供時代の絵本や漫画も、自分の目の前の全てを覆う現実世界のように感じていたように思います。これも紙独特の良さのように思いました。
『かぐや姫』
かぐや姫が強烈なフェイスであったとしても、おそらくこれまでに美人を嫌というほど見飽きたであろう貴族たちとっては逆に新鮮な対象に見えるのだろうという事が妙にリアリティがあって、笑ってしまいました。
最終フェイスの面が割れて、素顔のかぐや姫が現れた時、もしかしたらお公家衆やみかどは逆に落胆したんじゃないだろうか、とか。「なんだ、ただの美人か」的な。
かぐや姫が次の流刑星へと旅立った後の、お公家衆やみかどはどうなったしまうのかが、とても気になってしまいました。その後を想像するのもお話の醍醐味ですね。
『かさじぞう』
不覚にも涙を流してしまいました。
もし学生の頃に読んでいたのなら、「少し変わっているけど、善い人が最後に報われるよくある話」くらいにしか思わなかったように思います。
自分自身もここ数年は特に、主にお金がらみで厄介な目に合う事も多く、自然と仕事上でも人を疑って見る事が当たり前な状態が続いていたせいもあったのかもしれません。
コロナ禍においては特に、表向きは善人の顔をした小悪党たちが跋扈するのが当たり前になった世相の中で、100%の善、100%の無私の存在というものに対して、本当は自分もその存在を信じたい、本当は少しでも自分もそうありたいと心のどこかで無意識に願っていたのだと思います。
また、善を善であらしむるために、本来は善たるべき存在の地蔵たちが悪行に手を染めるという逆説がとても面白く(思わず中島みゆきの『空の君のあいだに』のサビのフレーズを思い出した)、また、それも現実世界での真理なのかもしれないと考えさせられました。
ある種、混沌とし切った世の中で考えられ得る唯一の無私という意味では、作中の老夫婦はもしかすると、上皇上皇后両陛下を投影した姿にも感じたのですが、それはあまりにも穿った見方かもしれません。
『ばば汁子守歌』
自分が子供の頃にはすでに子守歌というものは聴いた記憶が無く、また、自分が生まれた時には父方の祖母はすでに亡くなっていて、母方の祖母にしても、母に手を引かれて歩く私に向かって病室の窓から優しく手を振ってくれていたくらいの記憶しかないので、『ばば汁子守歌』のエピソードを拝読するたびに、小林先生をとても羨ましく思ってしまいます。
ばば汁で思い出すのは、人肉食ではないですけれど、自分が小学校三年生の時に手塚治虫が亡くなって、その日から毎晩アニメの『火の鳥』を放送していたのですが、そのうちの一つの『宇宙編』で登場キャラクターの一人が宇宙を遭難して辿り着いた星で仲良くなった鳥人間を最後に食べちゃうっていう中々なエピソードがゴールデンタイムのお茶の間に流れていて、無防備で見た自分はその日はとてもじゃないけど寝れないし、今に至るまでずっと胸に刺さったままの映像だったりするのですが、今となってはそのうまく言語化出来ない痛みこそがお話の持つ必要悪な部分ではないのかなと思うようになりました。
『ばば汁子守歌』を大人の目で見てしまうと、おばあさんを杵で撲殺する時になぜかタヌキがリアルで真顔なタヌキになっていて笑ってしまったり、股間にタマキンがしっかり描いてあって、やっぱりタヌキはタマキンあってのタヌキだなとか、ばば汁意外に美味しそうだな、タヌキ料理めちゃ上手いやんけと思ったりとか。
どうしても穿った見方しか出来ないので、これを今の子供が見たらどう思うんだろうかが気になりました。もっと言えば子供の頃の自分に読ませたかったです。
小林先生の画は身体性があって、ばば汁もいい匂いを感じるし、小林先生のおばあちゃんもおばあちゃんの匂いを感じるし、じいさんの噛んだばあさんの肉も食感を感じるし、もし子供の頃に読んでいたのなら、お話の詳細は忘れても、いつまでも五感が覚え続けていそうな、そんな気がしています。
※少し長くなりました、続きは改めて書ければと思います。
ビジュアルに関する分析はさすがと思ったら、
そればかりではなく「五感」に訴えてくる
という指摘はほんとに凄いと思いました!
こうなると、ここ30年ほど
よしりん先生が「論」にウエイトを
置き続けていたのがもったいなかった
と思ってしまうほどで、
なぜあれもこれも一緒にできないんだ!
と、無理なことを思ってしまいます。
それだけ、貴重な表現が
ここに出現したのです!
これは読まなきゃ、人生の損失です!!