今週の配信のキモは、なんといっても倉持が前からどうしても伝えたかったピアニスト内田光子によるベートーヴェンのピアノコンチェルトの分析を「近代立憲主義」と「個人」概念の理解に投影するコーナー☆
内田はモーツァルトは協奏曲を自分で指揮しながらピアノも弾くいわゆる「弾き振り」をするんですが、ベートーヴェンはそれが「難しい(=無理)」と。
これ、技術的な問題じゃないんです。
なぜって、ベートーヴェンの協奏曲は常にソリストとオーケストラを「対立」させねばならないので、指揮者が必要だと。
そしてこれは「革命以降の19世紀の思想です」と言うのです(モーツァルトは革命の思想を音楽にしなかったのだ、とも)。
どういうことか。
革命を経て近代立憲主義国家の創設にあたって、いわゆる教会(聖職者)とか貴族とか封建領主などなど中間団体をぶっ壊し、まっさらなところで個人と国家を対置したわけですね。
そこに、我々一人一人は、人種、性別、年齢、職業、信奉する価値すべてひっぺがした「個人」を析出したわけです。
ただ、これはとても厳しい対置です。
「個人」は全部自分で自律的に考え、行動し、国家と対峙しなければならず、孤独だし不安です。
この苦闘をベートーヴェンは描いていたのだと。
そう、近代立憲主義そのものなんですね。
なので、概念的にベートーヴェンの協奏曲は弾き振りできないと。
そして、この厳しい「対置」「対立」「対決」を規律するのが憲法です。
国家との対立があるからこそ「個人」が析出され、憲法が機能する。
この峻厳な対立関係がないところでは憲法(法)よりも、各「世間」や、空気が社会を規律します。近代以前の秩序です。
日本社会はこの「対立」がないことがコロナでよくわかりました。
有事と平時も切り分けられず(マンボウみたあなグレーつくっちゃったり)、要請が実質的に強制に機能しちゃったり。
なにより、マスク1つとっても国が基準をださなきゃ自分で考えて行動すらできない、行動制限してくれと懇願し、相互監視と同調圧力による下からの全体主義がウイルス以上に蔓延しました。
なるほど公権力との真の「対立」関係をつくれてない日本社会は「周りの目」などの世間や「空気」の方が法律や憲法より前面に出て規範化していたではないか。
真の国家との対立関係なきところに「個人」なし。
内田のベートーヴェンのピアノ協奏曲の分析はここまで含意するわけです(深読みしすぎ説)
情緒的対立や対立もどきはあっても、この国には真の対立が存在しない。
このオタクというか変態な時間(大体30:00前後)だけでもご覧いただけると嬉しいです☆
やーでもこういう話してるとき一番楽しいんだわ。
その他は、統一協会の信教の自由についてや、リベラルの本当の敵は安倍晋三でも自民党でもなく…?みたいなこと話してます。