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高森明勅
2022.3.4 09:00皇室

沖縄の本土復帰50年、天皇陛下に確かに受け継がれる「思い」

今年は沖縄の本土復帰50年に当たる。
天皇陛下は、お誕生日に際してのご会見でも関連の質問があった。
とても丁寧に答えておられるのが印象的だ。

沖縄については、上皇陛下が「天皇」として
最後に迎えられたお誕生日に際してのご会見(平成30年12月20日)で、
次のように言及しておられた。

「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。
皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、
その歴史や文化を理解するよう努めてきました。
沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの
私どもの思いは、これからも変わることはありません」

万感のご感慨をこめたお言葉だった。

ひめゆりの搭事件

上皇陛下が初めて沖縄を訪れられたのは昭和50年7月、
沖縄海洋博開会式に際してのことだった。
沖縄は先の大戦で民間人も巻き込んだ地上戦の舞台となり、
大きな犠牲を出した。
その為、沖縄県民の天皇・皇室への感情は複雑だった。

当時、「皇太子」だった上皇陛下が昭和天皇の
ご名代として沖縄にお出ましになり、しかも多く犠牲者を出した
南部の戦跡にお入りになると、今では想像もできないことながら、
テロの危険が予想された。

しかし、上皇陛下はそれもご覚悟の上で、
慰霊と鎮魂のためにわざわざ戦跡に向かわれた。
この時、「ひめゆりの搭」の前に進まれた上皇・上皇后両陛下に対して
火炎瓶が投げつけられる事件が起こった。

幸い、火炎瓶は両陛下から僅かにそれたものの、
炎がほんの数メールの場所で燃え上がった。
こ咄嗟の場面での、両陛下のご態度の立派さは、
長く語り継がれた。

この地に心を寄せ続けていく

上皇陛下は、現地の案内に当たられた「ひめゆり部隊」の
生き残りの女性の安否を、一番に気遣われた。
また、事件の後も、両陛下は当初の予定を全く変更されないで、
粛々と慰霊の行事を続けられ、犠牲者への敬虔な祈りを捧げられた。

更に、事件当日の夜、予定になかった談話を発表された。

「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における
県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、
ともどもに力をあわせて努力していきたく思います。
払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって
あがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、
これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、
この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。

県民の皆さんには、過去の戦争体験を、
人類普遍の平和希求の願いに昇華させ、これからの沖縄県を
築きあげることに力を合わせていかれるよう心から期待しています」

火炎瓶を投げた者らの気持ちをも包み込むような内容だった。

そして、まさに「この地に心を寄せ続けていく」とのお言葉の通り、
皇太子時代に5回、天皇になられてから6回も沖縄の地を
訪れておられる(最後は平成30年3月に与那国島をご訪問)。

その上での、最後のお誕生日に際してのご会見での
先のお言葉だった(「心を寄せていくとの私どもの思いは、
これからも変わることはありません」と)。

なお、上皇陛下が沖縄にお寄せになった格別の思いには、
昭和天皇ご自身が強く念願されながら、遂に沖縄を訪れられなかった
事情も加わっていると拝されるが、これについては改めて
(鈴木正男氏『昭和天皇のおほみうた―御製に仰ぐご生涯』ほか参照)。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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