昨日の生放送の中でキーワードとなった
「査読された論文」について、
公論サポーターメーリスから、
貴重・重要な現場報告です!
基礎医学研究者でございます。昨日の「オドレら」、興味深く視聴させていただきました。その際、よしりん先生らが「査読された論文って何なの?」という事を話題にされていましたので、今回は自分の現場的なコメントを以下にさせていただきました。
査読された論文とは、ざっくり言ってしまうと「(論文執筆者が掲載を希望する)雑誌(ジャーナル)の専門分野にまあまあ精通する研究者たちにより、内容が審査された後に掲載された論文」ということになるかと思います。通常は、2-3人の査読者 (reviewer(レビュアーといいます))が審査を行い、査読者の意見を編集者(editor(エディターといいます))が判断して掲載の可否を決定します(自分の経験では、査読者はあくまでも論文の科学的妥当性を評価するものであり掲載の判断をする訳ではないのですが、審査員のうちだれか1人でも厳しい評価を出してくると、論文が不採択になる場合が結構多いかと(逆に1人がすごく高い評価をしても、1人が否定的な意見を出してくると、あまり良い返事がもらえないということであります)。
こう書きますと、査読された論文はいかにも「これぞ真理」のようなことが記載されているように見えるかもしれませんが、実際にはそのようなことはありません。あくまでも論文というものは、掲載された分野において科学的に何らかの新しい発見があり(これまでの科学的知見と矛盾せず知見が少しでも積み上げられる)、論文に示された様々なデータ(実験データや臨床統計データ)は、少なくとも与えられた制約(条件)の中では明白な論理矛盾はなく、まあまあ妥当な結果を示す、という程度のものです。すなわち、論文から得られた知見といいますのは、データの捏造とかがなければ、現段階ではその発見に嘘はないのですが、導き出された解釈や結論は後に結構変わることがよくあるということです(これは、Cell , Nature, Scienceなどの基礎分野の超一流誌CNS(3つの雑誌の頭文字をとってこのように書きます。ちなみに、ボケて申し訳ありませんが、中枢神経系(Central Nerve System)の事ではありません(笑))においても、それは例外ではありません。
また、論文の投稿者および査読者双方の経験をしている立場から申し上げますと、この査読プロセスが完全に客観的というわけではなく、かなり“人間くさい要素”が入ってくることがあるのではないかと思っております。それは、審査する側も同業の「研究者」だからであり、「査読する」とは「未発表データ」を目にすることになるからであります。例えば、査読者がもしも、審査対象の論文が自分の研究と被っており自身の研究が脅かされそうなものである場合、わざと難癖付けて不採択にする、あるいは無理な要求をしてなかなか世の中に出ないようにするということはあるような気がします(特にその分野の新参者がインパクトの高い知見などを盛り込んだ論文を投稿した場合など)。自分は経験したことありませんが、ひどいのになると、掲載を送らせている間に自分達の方でも似たようなデータを出してしまい、競争に負けないようにすることもあるようです(トレンディな競争の激しい分野に結構多いと言われております)。
さて、前置きが長くなりましたが、「こびナビ」の人達が上で示してきたような、実際のところは語らないで「査読された論文に書いてあるから・・・!(?)しか言わないのは、私見では非常に権威主義的で、結局のところ実は自分達が科学的な見方ができないことを露呈しているのではないか?と思う次第です(まあ唯一聞けるのは「他人の目が入っている」という部分だけですが、それならばよしりん先生、モクレンさん、および笹さんは多数の著作を出版されており、その著書を出すために編集会議で企画を通し、編集者の目が入り、さらに著書を出した後に売り上げや読者の声などが反映されてくるはずなので、それは「論文」の掲載とはプロセスは異なりますが、本質的な意味はほとんど同じかと思う訳です)。
以上、何らかのご参考になれば、幸いでございます。
「査読された論文」は
水戸黄門の印籠でもなんでもなく、
むしろそれを振りかざす者は
自ら語ることができない紛い物だ
ということがよくわかります。
あらゆる現場の声が集まる公論サポーター、
ますます凄いものになっていきそうです!
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