皇室の方々に人権は認められるのか。
憲法上、基本的人権の享有主体として位置付けられるのか、どうか。《皇室と人権の関係》
これについては従来、主に3種類の考え方がある。
A説は天皇・皇族共に基本的人権の享有主体である「国民」
と見る立場(宮澤俊義氏・佐藤功氏・芦部信喜氏ほか)。
一般の人達には少し意外かも知れないが、実は長年、これが通説とされて来た。それに対して、B説は天皇と皇族を区別する。
その上で、天皇は基本的人権の享有主体たる「国民」ではない一方、
皇族については享有主体の「国民」と認める(伊藤正己氏ほか)。更にC説では、天皇・皇族共に「国民」には含まれず、
享有主体ではないとする(佐藤幸治氏・長谷部恭男氏ほか)。「天皇・皇族は、憲法が例外的に認めた身分制の『飛び地』」
(巻美矢紀氏ら『憲法読本〈第2版〉』)と見る立場だ。
しかし、それらのどの立場でも、憲法が定めた「象徴制」
・「世襲制」に基づく制約により、憲法第3章が国民一般に
保障する自由と権利は、全面的ないし大幅に制約されざるを
得ないとする“結論”では、ほぼ共通している。《人権の引き算》
政府の立場はどうか。
「一般的に基本的な人権をお持ち」だが、
「象徴としての地位をお持ち」なので「そういう方面からする
制約はございます」
(昭和54年4月19日、衆院内閣委員会での真田秀夫内閣法制局長官の答弁)
という見解。A説に近いだろう。
A説は素人目には、天皇・皇族の人権を最も尊重する立場のようで、
これまでの実情を見る限り正反対だった。
何故そのようになるかと言えば、「象徴制」・「世襲制」を理由として、
次々に“引き算”が行われて来たからに他ならない。象徴だから、世襲だから、という理由付けで、
自由や権利への引き算が(恐らく過剰に)積み重ねられ、
最後は人権として認められる内実はほとんど残らない―という
帰結に落ち着かざるを得なかった。《足し算は可能か?》
C説(天皇・皇族は国民とは区別された特別の地位にあるという見方)は、
その「飛び地」性を根拠に、あらゆる人権が締め出されてしまう
危険性を否定できない。例えば、長谷部氏は「『飛び地』の中の天皇に人類普遍の人権が認められず、
その身分に即した特権と義務のみがあるのも、当然」とする(『憲法〈第5版〉』)。一方、逆に「その特別な地位にふさわしい、
いわゆる『人権』の保護を正当に行うことが可能になるのではないか」
という意見がある。そのロジックは、以下の通り。
「象徴制」「世襲制」を規範(かくあるべきもの)として見ることで、
「個々の人権との関係で、『象徴の地位にあるから、
…の点について保護されるべきである』とか『世襲の地位であるから、
…の点について保護されるべきである』というように、
『象徴制』と『世襲制』を人権の制約要因としてのみでなく、
人権の保護要因として考えることが可能」になる
(園部逸夫氏『皇室法概論』)と。つまり、引き算ではなく、
“足し算”も可能ではないかというのだ。
傾聴に値する指摘だろう。《皇室の人権をいかに保護するか》
私自身としては、天皇・皇族はもとより「国民」の範疇には
含まれないと考える。だから、憲法第3章が「国民」に対して保障する自由や権利は、
天皇・皇族に全面的には適用されず、第1章の要請が優先されると、
整理している。但し基本的人権は元々、地位や身分などに関係しない
「人間の本来の権利」(法学協会編『註解日本国憲法(上)』)と
定義される以上、国民には含まれない天皇・皇族についても、
第1章の「世襲制」「象徴制」と絶対的に両立しない場合
(この点、従来はややもすると過大に考慮される傾向があった)
を除き、十分に尊重されるのが当然ではないか。そうでなければ、憲法の規定の仕方次第で「人類普遍の人権」を
自由自在に“刈り込める”、という危険な話になる
(長谷部氏にその自覚はあるのだろうか)。A・B・C説に共通の落とし穴は、「国民」だけ(!)が
「基本的人権の享有主体」であると、決め付けていることだろう
(外国人や法人の問題は一先ず横に置く)。それに加え、先ほどの“足し算”にも配慮した対応が
(法的な整備も含めて)執られると、これまで皇室の方々が
置かれ続けて来た、目に余る人権無視や人権侵害が横行する
“人権空白の飛び地”的状況が、少しは改善されるのではあるまいか。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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