毎週水曜日の動画配信 #クソすば ,今週は「民主主義に疲れているあなたへ」として、我々の”民主主義疲れ症候群”の処方箋、総論をやりました。
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まずは、民主主義で自明とされてるものが「あたりまえじゃないすごく無理のあること」であることを共有したかったのが今回です。
デモクラシーって、デモス(民衆・大衆)+クラトス(支配・力)が語源とか言いますよね。
で、民主主義の歴史って、もうとにかくこのいかがわしくて危なっかしいデモス(大衆)封じ込め作戦の歴史なんですよね。
そのために編み出したのが、お利口でお行儀がよくて合理的で政治に関心があって他者の意見も寛容に需要する「個人(individual)」を基礎単位とした「市民」によって選ばれた高い資質を備えた(公共の利益たる一般意思を体現する)「代表者」による統治です。
このあたり、ルソーからウェーバー、シュミットを経てシュンペーターまでざっとおさらい。
で、結局このモデルの基礎を作ったのがシュンペーターのエリートモデル。
民主主義は参加よりも、エリート同士の選挙による競争が本質で、行政権のトップを決める装置っていうのがつまるところ。
有権者は主権者ではなく、「消費者」のようなイメージです。
消費者たるデモスは日常も忙しいし基本政治に関心も資質もないんだから、エリートに任せとけよ。っていうやつですね。
これ、日本の与野党ともに未だにこのモデルです。
そこで出て来るのがこれ
「私たちの代表者は私たちを代表していない」
こうなると、エリートモデルや、お利口な「市民」から排除された生身の非合理的な「弱い個人」の行き場がなくなります。このルサンチマンが産んだのがトランプであり、昨今のポピュリズムや権威主義の台頭です。
ここから脱却するための様々な民主主義のモデルをめくるめく追っかけました。
参加民主主義、熟議民主主義、闘技民主主義、デリダの輪番制、くじ引き民主主義…
いろいろあるけど、日本はいまだに自民党も立憲民主党も、基本的に(口ではいろいろ言ってても)エリートモデルです。
強すぎる政党の官僚組織的側面や憲法への態度を見ていても完全な相似形です。
特に、「自分が選んだものが正しい、それ以外のものは間違い。間違っているから負けて良い。負けた側は滅んでも良い」という姿勢は、与野党同じ、もっというと支援者たちも同じ。
相手は完全に間違っていて自分は100%正しい。
こういう人達が選挙で目指している「政権交代」って、結局は民主的な独裁をかけて争っているのと同じです。
そんな中、人々はどんどん無関心になる。欧米は日本と違って”移民”と”宗教”が関数として加わるので、無関心以上に「不満」が溜まり、ポピュリズム的なものに支持が集まりました。既存の政治的集団への不信と敵意が政治的でないものへの支持に向いたのです。トランプはまさにそれ。
日本はむしろこの関数がないから政治的無関心が増える。
そこで、日本社会でこの無関心層が吸い込まれる象徴的なものが
”ひろゆき的なるもの”
です。
「それ、あなたの意見ですよね?」
に象徴される極端な相対主義・合理主義と、実証主義的な態度。中長期的ではなくその場その場の超実利的・超短期的戦略。
そして、正解の存在を前提とした「論破」。
こういう思考回路にあっては、いわゆる民主主義で大切とされる要素はすべて「無駄」です。
でも、”ひろゆき的なるもの”ってすごく簡単に誰でもできます。そして、既存の腐敗したエリート層や政治集団という「カッコ悪い」奴らへのアンチテーゼにもなります。彼の本が売れ、メディアへの露出が最近多いのも、このことと無関係ではないはずです。特に、若者や現役世代には影響力が高いとみてます。
しかし、”ひろゆき的なるもの”を人々が採用し出すと、価値にコミットしない極端な相対主義と場当たり的な論破によって、ますます日本社会はバラバラになります。
ということで、
「これが正しい民主主義だ」とか「あれは民主主義の正しい姿ではない」と言ってるやつを見たらそいつは民主主義的独裁を語っている可能性があるから疑え、ということが歴史から学べるとともに、”ひろゆき的なるもの”とも我々は対峙して克服していかなければならないのです。
民主主義とは何か、ということを民主的に話し合うことから始めることしかなさそうです。我々はおそらく我慢強く話し合うことで、「市民」や「個人」になっていく、変わっていく。それが尊いのであって、近代立憲主義が目指そうとして「個人」や「市民」というプロジェクトを放棄するには、まだ早そう。
ということは、何となく今回私にもわかりました。
いやー長い旅だけど、割と楽しそうだよ。
※ちなみに、この日のTシャツは、花巻にあるブリュワリー、Brew BeastのTシャツ、最近お気に入りのブリュワリーだす!