いわゆる旧宮家のルーツは伏見宮家。
その伏見宮家について、以前、保守系の論者が
興味深い言及をされていたので、紹介しておこう。「伏見宮家第11代・12代と御兄弟が次々お亡くなりになられたときに、
鍛冶屋の丁稚に行っている男の子を連れ戻しました。
…山城国西陣の鍛冶屋の徒弟となって『長九郎』と名乗っていたとのことです
(安藤為章『年山紀聞』)。その『長九郎くん』を第13代伏見宮家当主貞致親王として戻し、
今に至っています。
真贋は、当時の京都所司代が『これはご落胤に違いない』と判定したとのこと。
江戸時代の鑑定をどこまで信じるか。
以上、『伏見宮家実録』に載っている話です。さすがに明治の人も疑義を残すのはまずいと考えたのか、
伏見宮家出身の皇族(つまり今は旧皇族とされている方々の祖先)との
婚姻を進めたので、この方たちは女系ではまちがいなく明治天皇と
つながっていることになります」
(倉山満氏『日本一やさしい天皇の講座』。カッコ内も同氏)旧宮家は全てこの貞致(さだゆき)親王の血筋。その中で、
明治天皇と女系を介して繋がっているのは、竹田家・北白川家・朝香家・東久邇家だった
(但し北白川家は既に途絶え、朝香家にも皇籍取得の対象となり得る
世代の男子は不在)。同親王の経歴の特異さに加え、父親について異説があり
(同家11代・邦尚親王、又は10代・貞親親王など)、
出自の確かさを示す史料が主に母方の安藤家関係のもの
(『安藤略系』『安藤家系』『安藤家由緒書』)に偏っているのが、
「疑義」を残す原因になっているのだろう。義理の弟に当たる近衛基煕は、
この人物を「異風の人」と評していた(『基煕公記』)。
戦前はタブー視され、戦後は無関心ゆえに、
この辺りの冷静な歴史学的検討が、
意外と疎かになっているのではあるまいか。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
BLOGブログ