過去の女性天皇は「中継ぎ」だったという意見がある。
これを学説として体系化したのは井上光貞氏の「古代の女帝」
(『歴史と人物』所収、昭和38年)だろう。「天皇がなくなった後、
なんらかの政治的事情のため、皇位継承上、当然即位すべき
皇子の即位がはばまれ、便宜の処置として皇太后が位についた」、「本来女帝とは、皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に
即位してもの」、やがて「本来の女帝の観念が律令制の導入に
よって変質し」、奈良時代の女性天皇は父子による直系継承を
実現する為の中継ぎとして即位した、などと説いた。それに先行するのが、帝国学士院編『帝室制度史』
第3巻(昭和14年)。「皇女の皇位を継承したまひしは、何(いず)れも一時の
権宜(けんぎ、便宜の処置)にして、祖宗(そそう、皇室の代々の
祖先)の遺法に非(あら)ず」と。
これを遡(さかのぼ)れば、伊藤博文名義の「皇室典範義解(ぎげ)」
(明治22年、原案の執筆は井上毅〔こわし〕)に以下の記述がある。「推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも、
当時の事情を推原(すいげん)するに、一時(いちじ)国に
当(あた)り幼帝(ようてい)の歳(とし)長ずるを待ちて
位を伝えたまはむとするの権宜にほかならず」と。更にそれより古く、明治時代の自由民権結社・嚶鳴社
(おうめいしゃ)の「女帝を立(たつ)るの可否」を巡る
討論筆記(明治15年)に記録された島田三郎の意見に、
江戸時代の明正(めいしょう)天皇(第109代)を唯一の
例外として、他は全て“中継ぎ”とする見解が示されている。
これが女性天皇「中継ぎ」説の嚆矢(こうし、物事のはじめ)だろうか。島田三郎(1852~1922年)は横浜毎日新聞記者から
元老院大書記官・文部大書記官となる一方、嚶鳴社幹部として活躍。
明治14年政変で下野し、立憲改進党創立に関わった人物だ。
これまで知られているところでは、彼こそ女性天皇「中継ぎ」説を
(最も?)早い時期に提唱した人物ではあるまいか。
当時としては卓越した立論と言うべきだろう。戦後の井上氏の論文にも十分、学術的価値を認められることは、
改めて言うまでもあるまい。
しかし、それが(井上説以来)50年ないし(島田説以来)
100年以上もの歳月を経た今日も、そのまま通用するかは、
自ずから別の話だ。学界では、既に多くの批判が出されている
(上田正昭・小林敏男・荒木敏夫・河内祥輔氏・義江明子
・仁藤敦史ら諸氏)。
ご譲位の慣行がまだ無い段階で「中継ぎ」としての即位は
考え難いこと、男性天皇にも中継ぎのケースがあったこと、
これまで中継ぎと見られていた例が史料の再検証によって
評価が変更されたこと、等々。従って、それらの成果をしっかり踏まえて、
公平に理解しなければならない。
にも拘(かかわ)らず、日本古代史分野の研究状況に
疎(うと)い人々が、遥か昔の説をそのまま無批判に
振り回しているのは残念だ(当然ながら、同じ女性天皇でも、
飛鳥・奈良時代と江戸時代では、位置付けが全く異なる)。最新の学説を踏まえた「中継ぎ」説への系統的な批判としては、
義江明子氏の『女帝の古代王権史』(令和3年、ちくま新書)がある。
今後、同書の水準を踏まえないでこのテーマを議論をすることは、
学問上、認められないだろう。【高森明勅公式サイト】
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