3月3日、ひな祭り。
現在のひな人形の源流について、以下のような記述がある。「徳川家康の孫、東福門院(とうふくもんいん)が子供のために作った
座り雛(びな)がそのはじめであろう。
東福門院、名は和子(まさこ)ーー彼女は2代将軍秀忠(ひでただ)の娘
として生まれた。
徳川幕府による朝廷懐柔策のため、元和(げんな)6(1619)年、
14歳で後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后)
として入内(じゅだい、皇后などになることが決まった女性が
正式に宮中に入ること)した(厳密には初めは女御〔にょうご〕で、
やがて中宮に昇った)。元和9(1623)年皇女興子(おきこ)が生まれ…美しく、
かわいらしい子に育っていった。
寛永6(1629)年…後水尾天皇は譲位を決意した。
…天皇は周囲の反対をおしきって、御自分だけの意思で6歳の
興子内親王(明正〔めいしょう〕天皇)にご譲位されたのである。
平安時代以来絶えてなかった女帝の出現である。
中宮和子は興子が健やかに育ち、美しい花嫁になって嫁ぐ日を
夢みていたのだが、天皇になってはもはや結婚はできないであろうと、
興子の幸せを夢に描いた押絵(おしえ、花鳥・人物などの形に
切った厚紙に綿をのせ、美しい布でくるんで板などに貼った
半立体的な絵)の掛け軸をつくった。モデルは美女の代表・小野小町(おののこまち)と美男として名高い
在原業平(ありわらのなりひら)という夫婦の座り雛である。
押絵は男雛(おびな)が右(向かって左)、女雛(めびな)が
左(向かって右)に描かれている。母・和子が娘・興子の女としての幸せを祈る気持ちの表れとして
座り雛をはじめてつくり、それが現在の雛(人形)のはじめといわれている。
…興子内親王は天皇になられたので、女帝は上位であるために、
女雛が左(向かって右)に座っている。
これは唐制にならった左上位の思想の表れである」
(永田久氏『年中行事を「科学」する』)。これの史料上の根拠を確認する時間のゆとりが、
残念ながら今の私にはない(『時慶卿記』〔ときよしきょうき〕
=西洞院〔にしのとういん〕時慶の日記も覗〔のぞ〕いていない)。
でも、興味深い記事なので、紹介した。上記の押絵では、男雛と女雛の並び方は、現在の関東風と
同じだったことになる。
文中、「天皇となってはもはや結婚できないであろう」とある。
だが、江戸時代の皇女で13歳以上まで無事に成長された皇女は50人で、
(女性天皇に限らず)その7割以上が未婚のまま過ごされた
(結婚されたのは14人だけ。
服藤早苗氏編著『歴史のなかの皇女たち』所収、久保貴子氏の論文による)。男尊女卑の風潮が著しい社会で、皇女はその尊貴さ故に、
かえってご結婚の機会を得るのが困難だったようだ。
古代の女性天皇の場合、既婚ながら、配偶者たる天皇又は
皇族が亡くなった後に、即位された例が多い
(推古天皇、皇極天皇=斉明天皇、持統天皇、元明天皇)。元正天皇や孝謙天皇=称徳天皇の場合は、即位された時点で
既に当時の適齢期を過ぎておられた。
それまで結婚されなかったのは、もし結婚後に即位されると、
配偶者たる皇族やそのお子様にも皇位継承資格が認められ、
当時、期待されていた継承順序に混乱を招きかねない為、
それを避けたと考えられる(松尾光氏「元正女帝の即位をめぐって」、
拙著『日本の10代天皇』)。女性天皇のご結婚を巡る事情について、古代と江戸時代を
同一視することは出来ない。
何故か、歴史上の女性天皇は皆様、ご生涯ずっと
独身でいらした方々ばかり、という錯覚もあるようだ。
しかし、勿論(もちろん)そんな事実はない。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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