紀元節の元になった、『日本書紀』に描かれた神武天皇像を、
そのまま史実と見ることは出来ない(勿論〔もちろん〕、
『古事記』も同様)。しかし、その物語の“核”には、国内統一の端緒において、
政治の中枢が九州(恐らく福岡方面だろう)から大和(奈良)の地に
遷(うつ)った「事実」があった、と見て良かろう。そこから伝説的・神話的に物語として発展した部分は、
むしろ古代統一国家建設期の日本人の、国家や天皇への“理想像”が
語られていると受け取るべきだろう。
その観点から注目されるのが、神武天皇が橿原の地に“最初の都”を
定めるに当たって、国家建設の方向性を表明した「令(のりごと)」の
一節だ。「天上の皇祖神がこの国をお授け下さったご恩恵に報い、
地上で皇祖の系統を受け継いだ代々の先祖が正義を育まれた
御心を弘めよう。
それによって、国内をまとめて都を開き、天下を全て一つの
家族のようにすることは、とても良いことではないか」
(『日本書紀』神武天皇即位前紀・己未〔つちのとひつじ〕年
3月7日条、高森訳)と。ご自身で苦心惨憺(さんたん)して国の礎(いしずえ)を築かれたことが、
これ以前に延々と語られているにも拘らず、それを天皇自らの手柄とせず、
天上の神から与えられた恩恵としている。
その点に、古代日本人の“リーダー”像を窺(うかが)うことが出来る。更に、「正義」を重んじ、その正義を自分に帰属させるのではなく、
代々の先祖が守り育てたもの、と位置付けていることも、大切だ。
こうしたメッセージが、初代天皇の「令」として語られていた事実は、
それ自体が強力な理念・規範として機能し、後の天皇に対して、
神への謙虚な姿勢と正義に基づく公正な行動を求め、権力を恣(ほしいまま)
に行使する振る舞いを、決定的に制約したはずだ。「建国記念の日」の遠い源流には、古代統一国家建設期における
日本人の、“天皇と国家”のあるべき姿へのイメージ(心的表象)
が秘められていた。(了)【高森明勅公式サイト】
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