論座でも『リベリベ』です。
「~対立ではなくオルタナティブの政治は可能か」をサブタイトルに、拙著ではあまり触れられなかったコロナ禍の問題や香港の問題を経て、我が国に自由と寛容と多様性を核心的価値として、これを法や制度というシステムで死守するという「リベラル」はいるのか?!という疑問を持った点にフォーカスして書きました。
また、自称「リベラル」と思しき人々の、過度な”口汚さ”を指摘しました。
(以下引用)
「「猿以下」「クズ」「カス」「ゴミ」「掃きだめ」「死んだほうが良い」などと、公の場や媒体で発信すること自体、責任ある言論人としては常軌を逸しているとしか言いようがない。これをヘイトスピーチといわずして何なのだろうか。この手の発信が、リベラルであろう学者や法律家から発されるのを見ると、最近では哀しみすら覚える。
憲法論議などでは「相手の土俵に乗らない」ことに躍起な人々が、このような罵詈雑言では容易にヘイトスピーチの「土俵に乗る」ことが正当化されているのか。そのダブルスタンダードは、自らの言論の価値や信用性を明らかに貶(おとし)めていることを自覚した方がよい。」
要は自称リベラルが中身も方法もリベラル(自由、寛容、多様)じゃないんだよね。
このあたりを自覚して、全能感を捨てて、対立ではなくオルタナティブに昇華していかなければ、日本にはリベラルが育たないのでは、という思いです。
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