「8月15日、以前は靖国神社に行っていましたが、 もう行かなくなりました」 海軍兵学校出身のある方を取材したとき、 彼はこう語っていた。 「なぜですか?」と私は聞いた。 私も一時はこの日に行っていたが、もう行かなくなった。 この日だけ、何だかお祭り騒ぎのように街宣車が走り、 自称愛国者が集い、己の素晴らしさを確認する、 そんな場になっているように感じたからだ。 この方は、兵学校在学中に終戦を迎えている。 どうして行かなくなったのだろう。 彼は一言、静かにこう言った。 「私にとってこの日の靖国神社は、 悔しさを新たに噛みしめる場所なのです」 これから戦場に出て存分に暴れてやろう、 国家存亡の危機に自分も立ち向かうのだ、 そうして兵学校に入り軍人を志した彼にとって、 日本の敗北は、まるで進むべき道の はしごを突然外されたようなものだった。 戦って敗れたのではない。 自分は戦いに間に合わなかったのだ。 国家の敗北と己の無力。 やり場のない憤りを、彼は「悔しさ」と表現した。 戦後75年。 彼は最近まで、靖国神社でその悔しさを 毎年新たに噛みしめて生きてきたのだ。 「最近は騒がしくなってきましたからね、 私には、ちょっとあの雰囲気は違うような気がします」 『戦艦大和の最後』を著した吉田満は、 『戦中派の死生観』という本にこう記している。 「ポツダム宣言受諾によって長い戦争が終り、 廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうと したとき、復員兵士も銃後の庶民も、 男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、 自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを、 抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、 戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。 (中略) しかし、戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、 終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、 断ち切られることになったことも、事実である。 断ち切られたのは、戦前から戦中、さらには戦後へと 持続する、自分という人間の主体性、 日本および日本人が、一貫して負うべき責任への 自覚であった。要するに、日本人としての アイデンティティーそのものが、抹殺されたのである」 「アイデンティティーの枠をいつまでも無視できると 即断したところに、国際社会の一員として生きる 資格のない、日本人特有の甘えがあった」 「われわれ日本人は、戦争と敗戦の経験を通して、 本当に目覚めたのか。日本が孤立化の道を 突き進んだ果てに、奇襲攻撃によって戦端を 開かざるをえなかった経緯の底流にあるものを、 正確に解明することができたのか」 私には、山田風太郎が日本人を「軽薄なのだ」と 書き殴ったところの本質に通じるように思える。 多分、あの日私が話を聞いた彼は、今日は自宅でひとり、 悔しさを噛みしめているに違いない。
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