往年の国民的大女優、高峰秀子。
その美貌と演技力から、日本映画史上最高の名女優との評価もある。
代表作は「二十四の瞳」「浮雲」「喜びも悲しみも幾年月」「名もなく貧しく美しく」
など。彼女が終戦を迎えたのは二十歳の頃。
8月15日は、軍慰問用の映画を撮影する為に、千葉県の館山(たてやま)
に入っていた。
同地には館山航空基地があった。
だから滞在中、現地でB29の空襲も体験していた。15日の正午、昭和天皇の「玉音(ぎょくおん)放送」を雑音だらけのラジオで聴いた。
放送自体は「なにがなにやらチンプンカンプン」だったという。
しかし、程なく敗戦を知る。その夕暮れ。
「館山の街は騒然としていた。
耳をツン裂くような爆音を立てて、宿の屋根スレスレに飛び交う飛行機から、
『徹底抗戦、われわれは死ぬまで闘う!』と書かれた、
インクの匂いも生々しいガリ版刷りのビラが紙吹雪(ふぶき)のように
撒(ま)かれ、宿の庭には、つい今朝までは明るい笑顔で挙手の礼も
すがすがしかった顔見知りの甲板(かんぱん)士官や将校たちが、
酒気を帯び、抜き身の日本刀をかざしてなだれ込んで来た。
ランニングシャツ一枚の彼らの眼は赤く血走り、『エーイッ、ヤーァッ!』
と鋭い叫び声をあげながら、庭の木々をめった打ちに斬りまくった。(略)『明日からどうなるのだろう…』考えても仕方のないことを、
私はうつらうつらしながら考え、いつか眠っていた。
再びキィーッ!という飛行機の爆音に、私はビックリして飛び起きた。
時計は12時をまわっていた。
飛行機の轟音(ごうおん)はあとからあとから、宿の真上をひっきりなしに
通りすぎて、海の彼方に消えていった。『戦争は終わったというのに…なんのために…』私の脳裡に、夕方、
吹雪のように空から降ってきたビラの文句が思い浮かんだ。
『徹底抗戦、われわれは死ぬまで闘う!』闘うことのみ教育され、
闘って死ぬことだけをたたき込まれて突然、闘う相手を失った彼らの
やり場のない絶望感は、『自爆』によってしめくくりをするよりほかに
なかったのか。飛行機の腹に何本の爆弾を抱えて飛び立ったかしらないけれど、
零戦に積まれる燃料の量はしれている。
果てしなく続く暗い海の上を飛び続けて、いつかガソリンの最後の一滴が
切れたとき、そこが彼らの墓場になるのだ。
私はいても立ってもいられない気持ちだった。『戦争は終わったのに…』屋根の上を通りすぎてゆく爆音を聞きながら、
私はただ呆然(ぼうぜん)と、蚊帳(かや)の中で膝を揃えて座っていた」
(『私の渡世日記 上』昭和51年)うら若き女優が夜、蚊帳の中で不安と悲しみを抱えつつ、
粛然といずまいを正しいる宿の上を、もはや敵を喪った戦闘機が爆音を
轟(とどろ)かせながら、ひっきりなしに海の彼方へと飛び去って行く。
そんな「8月15日」の光景もあったのだ
(深夜の12時を回っていたなら厳密には16日だが)。あの戦争が、あの時点で、あのような形で、概(おおむ)ね“静かに”
終結を迎えたのは、現代の日本人がしばしば錯覚しているのとは違って、
実に至難なことだった。その事実を忘れてはいけない。
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