論敵の似顔絵を醜悪に描くというのがダメという言い方が
未だにされるのが幼稚でアホらしいが、いっぺんきちんと
言っておく。
街の似顔絵描きや、裁判所の画家の似顔絵と、漫画の
似顔絵は全然違う!これが結論だ。
街の似顔絵かきは、本人を喜ばせるために、描き手の
悪意を出さないが、漫画の場合、漫画家の「主観」が
大いに入る!
漫画家の主観が入らない、美しくも醜悪でもない、客観的
な似顔絵を描いてしまえば、全く面白くないデッサンのみ
の似顔絵になる。漫画ではなくなるのだ。
裁判所の画家はむしろ、主観を入れないように、被疑者の
似顔絵を描くだろうが、漫画家がそんな似顔絵を描いたら、
ヘタクソということになる。
外国の漫画家が政治家への風刺を描くときの似顔絵は、
これでもかというほど醜く描く。
もっと酷いときはシャルリー・エブド事件のように、マホメッドの
風刺画まで描いてしまう。
わしはそこまで描くのは自制するが、フランスではむしろ、
シャルリー・エブドを擁護するデモが、政治家も参加して
行なわれる。
「言論・表現の自由」は民主主義の基本だから、多少傷つく
人がいても、守られるのだ。
こんな初歩の初歩の知識も持たずに、未だに似顔絵を
醜悪に描くのは卑怯とか、「法」を否定するムラ社会の感覚
で批判してくるのは、単なる馬鹿である。
岡田晴恵と玉川徹がわしを訴えてみればはっきりする。
「言論・表現の自由」とは民主主義社会にとって、圧倒的に
重いものなのだ。
似顔絵が醜悪だからダメというなら、今までの『ゴー宣』の
ほとんどを発禁にしなければならない。
安倍首相の顔だって、わしの主観で描いているのだから。
わしが描いた似顔絵をどう見るかは読者の感性に委ね
られる。
共感を得られれば、わしの評判は上がるが、共感を
得られなければ、わしの評判は下がる。
「SPA!」『ゴー宣』の岡田晴恵・玉川徹の似顔絵は、
圧倒的に好評で、「してやったり!」とわしは思っている。
あの2枚の似顔絵は歴史に残るだろう。
まさにあの似顔絵が小林よしのりの真骨頂なのだ!
それが分からぬ者は、『ゴー宣』を読めない馬鹿なんだから、
永久にわしの作品を読まなければいい!
無理にわしの作品を読む必要はない!
誰に強制されてわしの作品を読んでいるのか?
自分の意志だろう?自分が読みたくてたまらないのだろう?
わしの『コロナ論』は恐るべき傑作になるが、馬鹿は絶対に
読むな!
永久にわしの作品を読んではならない!