旧宮家系国民男性は皆さん、天皇から遥かに血縁の
遠い人達ばかり(20世以上)。
法的規範として最初に皇族を定義した大宝・養老令では、
4世(玄孫)までとの世代制限を設けた。
歴代天皇の中で例外的に飛び抜けて血縁が遠かったのは5世
(6世紀初めに即位された継体天皇)。この時は血縁の遠さから、
“入り婿”型の皇位継承を余儀なくされたと見られる。明治の皇室典範では、明治天皇ご自身の皇位の安定継承へのご不安を背景に、前例のない永世皇族制(皇族のお子様は、天皇との血縁がどれだけ離れても、皇族であり続けられる)が採用された。しかし一方では、天皇自ら世代限定制の妥当性をお認めになっていた(宮内庁『明治天皇紀』明治21年5月25日条)。実際に、後に皇室典範の増補という形で、事実上の方針変更に踏み切った(明治40年)。それでも、増加した傍系の皇族の一部の行動には、
国民の尊敬を受けるべきお立場に相応しいとは言い難いものが
あったのは、残念だ。旧宮家系の天皇からの血縁の遠さについては、
以下のような指摘がある。「(旧宮家は全て伏見宮系だが)伏見宮はいまから
600年以上前に天皇家から分かれた家である。
したがって、近・現代の天皇との男系の血縁関係はきわめて遠い。
これに比べて、摂家(せっけ、摂関〔せっかん〕家とも。摂政・関白に任じられる家柄。近衛〔このえ〕
・九条・二条・一条・鷹司〔たかつかさ〕家)などの
名門公家の中には、江戸時代になり皇族が養子となって継いだ
ところもある。たとえば江戸初期の元和(げんな)年間に関白だった近衛信尋
(のぶひろ)は後陽成(ごようぜい)天皇の皇子だし、江戸中期の
天明年間にやはり関白だった鷹司輔平(すけひら)は、
閑院(かんいん)宮直仁(なおひと)親王の王子で東山天皇の
孫にあたる。したがって、近衛・鷹司の人々は、明治になって続々と成立した
伏見宮系統の宮家の皇族たちよりも、相対的に天皇家と血縁が
近いといえるのだ。…時とともに希薄となる一方だった伏見宮家と天皇家の
血縁を考えれば、明治初期においては両者は他人同然だったと
見るべきだろう。伏見宮系統の皇族の中にもこのことを自覚する者はおり、
山階(やましな)宮晃(あきら)、小松宮彰仁(あきひと)、
東久邇(ひがしくに)宮稔彦(なるひこ)などは、それを
理由にした皇族の臣籍(しんせき)降下を主張したことがある」
(浅見雅男氏『皇族と天皇』)血縁の“遠さ”を理由に、傍系の皇族ご自身が皇籍離脱を
唱えておられた。
そのお1人だった東久邇宮稔彦王の系統から、世代的に“より
一層”血縁が遠くなった人物に、新たに皇籍を取得して貰おうという
意見が、男系論者の中から出ているのは、まこと皮肉だ。しかも、東久邇家と昭和天皇との「女系」による血縁の“近さ”
(2代目・盛厚〔もりひろ〕王に成子〔しげこ〕内親王が嫁がれた)を
強調するあたり、もはや支離滅裂と言う他ない。【高森明勅公式サイト】
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