1人の人格の中には、「公人性」と「私人性」、そして
「集団性」と「個人性」がある。
小林よしのりの「私人性」をアンチがいかに貶めようと
しても意味がない。
わしは作品の中で何度も何度も公言してきたが、聖人君子
ではないし、清廉潔白でもないし、女にだらしなく、どう
しようもない男である。
これは堂々と言える真実である。
そんなことは妻や秘書は百も承知で、それでも支えている
のは、わしの「公人性」を信じているからである。
才能があるから仕方がない、天下国家の人だから仕方がない、
あとは目を瞑る、「私人性」に関しては諦めた、というのが
わしを今まで支えてくれた女性たちの姿勢である。
わしの「私人性」に何かを期待する女性は、寄って来ない
方がいい。
わしを本当に理解してくれる女性は、わしの才能しか見て
いない。
男だってそうである。わしの才能しか見ていない。
わし自身、自分の才能がこんなに長続きするとは思わな
かったが、こんなに長く描いていると、男女を問わず、
信奉者は出て来るもので、それも自然なことだ。
だが彼ら彼女らは、わしの才能が枯れたら、あっという
間にそっぽを向く。残酷な天使のテーゼである。
わしの才能が失われたとき、誰がわしのそばにいるの
だろうか?誰が優しくしてくれるのだろうか?
例えそういう人がいたとしても、才能を失えばわしは
死ぬしかないだろう。