先週のライジング『NHKクロ現+』での性暴力被害をめぐる
論考に、被害当事者の女性が感想を書いてくれているのを
教えてくれた人がいて、いま読みました。
はじめての投稿に、何度も苦労しながら勇気を出して自分の
言葉で書いてくれたようで、とてもありがたいです。
しかも、被害者、家族問題、支援運動に関するいろんなことを
精細に感じ取って考えていて、すごいなと思いました。
思春期のときに心をばらばらにされるような体験をして、
まず自分の感情を認識するにも苦労する状態なのに、
身に起きたことを論理的に明確に人に伝えるなんて、
至難の業だと思います。
専門家に相談するにも、嫌な思いを繰り返さなければ
ならないのは、あまりに悔しいことだし、
本当なら、怒りをぶつけたくなるようなことばかりなんじゃ
ないかとも思います。
被害者に問題があるかのように考える人々が、
加害者の卑劣さ、凶悪さを間接的に不問にしてしまい、
まるで「やったもん勝ち」のようなことがまかり通る現状は、
いい加減に終わらせなきゃいけないと思います。
自称保守系、もとい“保身系”の雑誌には「やったもん勝ち」の
支離滅裂な理屈が、被害者を貶めれば達成できるという勢いで
平気で展開されているので本当に呆れてしまいます。
私がずっと気になっているのは、世の中を見渡したとき、
そこに「私」を参加させないまま、
「原因はこれだ、これさえ直せば、良い結果になるだろう」
「この問題に則した回答がほしい」
「これを解決するためのノウハウと情報がほしい」
という風に、物事が、目に見える範囲の“因果の断片”だけで
出来上がっているかのように考えてしまう人が少なくないと
いうことです。
それが、家族間の情をも浸食しているのかもしれません。
人間って、決してノウハウや情報だけでなく、
「なぜこうなっているのか?」という全体の物語の中に生きながら、
そこに含まれる矛盾にも耐えつつ、バランスをとろうとすることで、
心が養われていくのではないかと思うけど、
肝心な物語を見失って、虚しい情報にすがりつき続ける結果、
「心がわからない、ノウハウ人間」のような人が出来上がって
しまうのかもしれません。
そういう人って、不安を抱えているのに他者にはすごく狭量です。
それじゃ困る。
あらがって、成長していくのは大変だけど、
だから思想することをやめたくないと思います。