以前、大嘗祭は専ら民衆とは無縁な密室の秘儀、
というイメージが独り歩きしていた。
事実はそうではなく、大嘗祭は国民(公民)の奉仕を
基盤してこそ初めて成り立ち得る、極めて民衆的な祭儀である事を
実証的に明らかにしたのが、手前味噌ながら私の大嘗祭論の特長だ。大嘗祭が制度的に確立したのは第41代・持統天皇の時(691年)。
その時の様子を伝える『日本書紀』の記事に、既に以下のような
記述がある。「供奉(そのことにつかえまつ)れる播磨(はりま)・因幡(いなば)
の国の郡司(こおりのみこともち)より以下、百姓(おおみたから)の
男女に至るまで饗(あえ)たまひ、併(あわ)せて絹等を賜(たま)ふこと、
各差(おのおのしな)有り」(持統5年11月30日条)と。悠紀(ゆき)・主基(すき)両国に選ばれた播磨と因幡の「百姓の男女」
の奉仕が特筆大書されていた。
その奉仕の人数については、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に
第43代・元明天皇の大嘗祭について、次のような記事がある。
「神祇官(じんぎかん)と遠江(とおとうみ)・但馬(たじま)
二国の郡司と、併せて国人の男女惣(すべ)て一千八百五十四人に、
位(くらい)を叙し、禄(ろく)を賜ふこと各差有り」
(和銅元年〔708〕11月27日条)。ここに出て来る人数のうち、「神祇官」の役人や「二国の郡司」
(岩波書店刊の新日本古典文学大系本は「二の国郡司」と訓〔よ〕むが疑問)
らの人数は200人弱と推定できるので、遠江・但馬両国から上京した
「国人の男女」は1,600人を越えていたはずだ。当時の人口は450万人位(鬼頭宏氏)。
だから、今の人口規模に置き換えると4万人以上の多さになる。
平安時代の貞観『儀式』や『延喜式』では更に人数が増えて、
3千人余りから3千5百人にも達している。
上京した人々が、平安京の北側にあった斎場から内裏の朝堂院まで、
自分たちの供え物を運び込む大行列は、彼らにとってまさに
一世一代の晴れ舞台だったろう。悠紀・主基両国はそれぞれ、その行列の中に
「標(ひょう)の山」と呼ばれた飾り山を曳(ひ)いて、
都大路に繰り出した。
その盛んな様に、上皇や貴族、一般の都住民らも見物に
詰め掛けた(『台記〔たいき〕』
『中右記〔ちゅうゆうき〕』『江記〔ごうき〕』など)。
両地方の人々の得意さを想像できるだろう。ちなみに、この時の「標の山」こそ、現在、各地の祭礼で
曳かれている山車(だし)の源流とされている。
大嘗祭が、前近代から極めて民衆的な祭儀だった事実を、
見落としてはならない。【高森明勅公式サイト】
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