令和の即位礼と大嘗祭が東京(皇居)で行われる。
多くの国民はそれを当たり前だと思っているだろう。
しかし、これは平成の“新例”を踏襲したもの。
大正・昭和は京都で行われた。
明治の皇室典範には以下の規定があったからだ。「即位ノ礼及(および)大嘗祭ハ京都ニ於(おい)テ之(これ)ヲ行フ」
(第11条)と。典範制定当時(明治22年)、既に東京が事実上の首都だった。
にも拘らず、このような規定が設けられた。
その頃はまだ「千年の都」だった京都への強い郷愁が残っていた
からに他ならない。
同規定の“心理的な”拘束力は、明治典範が法的に失効した後の
平成の御代替(みよが)わりにも、ある程度は残っていた。
国民のごく一部ながら即位礼・大嘗祭を京都で行うように求める声もあり、
宮内庁がまとめた『平成大礼記録』を見ても、警備や経費などの問題を挙げて、
京都では行えなかったと説明している。しかし、即位礼・大嘗祭は皇位継承に伴う重大儀式だ
(今の憲法下でも、前者は国事行為、後者は公的な性格を持つ皇室行事)。
ならば、「首都」で行う事こそが最も相応しい。
実際に明治までの実例も皆しかり。
明治の場合は、天皇が東京に移られる前に京都で即位礼、
東京に移られてからは同地で大嘗祭を行われた。
平安遷都の前の奈良時代には当然、2つの儀礼とも平城京で行われていた。京都で行うのが伝統なのではなく、首都で行うのが伝統だった。
ただ京都が首都だった時代が長く続いたに過ぎない
(無論、それが往時の人々に強い愛着心を生んだのは理解できる)。
従って大正・昭和の場合は、皇位継承の長い歴史から見れば“過渡的な”
姿だった事になる。
首都から離れた京都で行ったので、難題もあった。
それこそ経費面などの制約からも、性格の異なる(即位礼は華美、大嘗祭は
静謐〔せいひつ〕で、むしろ対照的な)2つの儀式を、立て続けに行う必要があった。大正・昭和共に両行事の間隔は僅か3日間しか無かった。
その事による弊害も指摘されていた(柳田国男など)。
こんなやり方は勿論、全く前例が無い。
平成では9日間、令和ではもっと間隔を空ける事になった
(即位礼が10月22日、大嘗祭が11月14・15日)。
これも東京で行われるからこそ可能になった。
しかも大嘗祭では歴史的に、天皇のお膝元と言うべき地域(畿内〔きない〕)の
“外”側(畿外〔きがい〕)から選ばれるのが通例だった悠紀(ゆき)・主基(すき)
両地方のうち、今回は主基地方が亀卜(きぼく)によって京都に決まった。
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