大東亜戦争が秩序ある終戦を迎えられたのは、
昭和天皇の我が身を顧みない無私の「聖断」によるところが絶大だった。
昭和天皇が「終戦」を意識されたのはいつ頃からか。
昭和天皇の側近に仕える内大臣だった木戸幸一の日記には、
開戦から僅か3ヶ月後の昭和17年2月10日に、天皇が東条英機首相に
次のように告げられた事実を記している。「戦争終結につきては機会を失せざる様(よう)充分考慮し
居(お)ることとは思うが、人類平和の為にも徒(いたずら)に
戦争長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず。
又(また)長引けば自然(に)軍の素質も悪くなることでもあり、
勿論(もちろん)此(この)問題は相手のあることでもあり、
今後の米英(アメリカとイギリス)の出方にもよるべく、
又独ソ(ドイツとソ連)の間の今後の推移を見極めるの要もあるべく、
且(かつ)又、南方の資源獲得処理についても中途にして能(よ)く
其(そ)の成果を挙げ得ない様でも困るが、それ等(ら)を
充分考慮して遺漏のない対策を講ずる様にせよ」(12日条)と。早くもこの時点で「戦争終結」を視野に入れておられたことが分かる。
更に、同年1月の歌会始(うたかいはじめ)に既に次のような
御製(ぎょせい)を詠(よ)んでおられた。
峯(みね)つづき
おほふ(覆う)むら雲
ふく風の
はやくはらへと
ただいのるなり
(連峰に暗雲〔あんうん〕が重く垂れ込めている。
どうか一陣の風が吹いて、その黒雲〔くろくも〕を
早く吹き払って欲しいと、ひたすら祈っている)
これは明らかに、「戦雲(せんうん=戦争)よ、早く去れ」と
平和回復への“祈り”を詠んでおられる。
戦争終結へのお気持ちを込められた和歌に他ならないだろう。
昭和天皇は開戦直後から、「終戦」つまり平和が少しでも
“早く”訪れることを、切に願っておられた。ちなみに開戦の前年、
昭和15年の歌会始の御製は次の通り。
西ひがし
むつみかはして(睦み交わして)
栄(さか)ゆかむ
世をこそ祈れ
としのはじめに(年の始めに)
昭和天皇は世界の平和共存(きょうそん、近年はキョウゾンとも)
と互恵共栄こそを祈っておられた。
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