女性天皇を歴史上、「女帝」と呼んで来た。
男尊女卑=父系制(男系主義)の社会を形作ったシナには、
例外的にたった1人の女帝(則天武后〔そくてんぶこう〕=則天大聖皇帝)
が存在したのみだった。又、シナ文明の“洪水”のような影響下に置かれた朝鮮半島の場合、
3人の女王がいたにとどまる(新羅〔しらぎ〕の善徳王・真徳王・真聖王)。これらに対し、わが国では10代8方の女性天皇がおられた事実は、
よく知られているだろう。
シナとは違う「日本らしさ」を表す事実だ。
「女帝」という語の用例について、『日本国語大辞典』(第11巻)
の「女帝」の項目には『栄花物語』の中で孝謙天皇(第46代)を
「高野の女帝」と称している例などを挙げている。
同書(正篇)は長元6年(1033)頃に成立したとされている。
よって、その頃に「女帝」の語が遣われていたのは間違いない。
それどころか、これより三百年ほど遡る用例がある。
『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』に収める天平3年(731)
6月24日の「勅」に見えているもの。これは勿論、法制文書であるが、
そこに「男帝」と「女帝」という語が並んで出てくる。
これによって、「女帝」が8世紀前半に既に用いられ、
しかも公式な法制用語だった事実が確認できる。『養老令(ようろうりょう)』の施行は757年だから、
同「継嗣令(けいしりょう)」の本注にある「女帝」より古い用例だ。
『令集解(りょうのしゅうげ)』に引用する
『古記(こき)』(738年頃に成立)にも「男帝」「女帝」が出てくる。
しかも同書は『大宝令(たいほうりょう)』(701年施行)の注釈書であるから、
「女帝」という語は同令には既に存在していた事が確認できる。
「女帝」(女性天皇)は、古代の日本にとって、
「男帝」(男性天皇)と並んで普通の君主の在り方だった。【高森明勅公式サイト】
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