歴史学の分野では、古代日本がその基層において「双系」制社会だった、
との認識がほぼ共有されていると言えよう。
例えば、新しい研究成果から。「皇位の継承において女性や母系が重視されたのは、
古代日本が双系制社会、すなわち、父系(男系)と母系(女系)の双方の
出自が同等の重みをもつ社会であったからだ。
日本で良男・良女間の子を父親の氏族に属させるよう定められたのは、
記録上は大化元年(645)のこととされており、実際には、7世紀後半の
天智天皇(38代)の治世にこうした政策が行われ、8世紀にかけて、
父系制社会に緩やかに移行したと考えられている。この点に関連して注目されているのは、
大宝元年(701)に施行された大宝令で、女性天皇の皇子女も、
男性天皇と同様に、親王・内親王とするとされていたことである。
このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在であった
ことを意味する。中国の律令を反映して、日本の律令では男系主義を採っているが、
その中に残された双系制社会の名残(なごり)が、
この女性天皇の皇子女に関する規定であった」
(佐伯智広氏『皇位継承の中世史』平成31年4月、吉川弘文館)
―文中、「記録上は大化元年(645)のこととされており」
とあるのは、同年8月の「男女の法」を指す。
同法については改めて。
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