天皇に自由はあるか。
僅かながらある。それはどこにあるのか。天皇の3つの行為に即して、具体的に述べよう。先ず、国事行為。これは全て「内閣の助言と承認」による。だから原則、そこに天皇の自由はない。だが、皆無ではない。例えば国事行為として行われた、先頃の「退位礼正殿の儀」「即位後朝見の儀」での“おことば”。
明らかに、天皇(上皇陛下・天皇陛下)のご肉声を聞き取る事が出来た。そこには、天皇がご自身のお気持ちを表明される自由が、
僅かでも存在した事実を窺わせる。次に、象徴としての公的な行為。こちらにはある程度、天皇に自由が認められる。象徴たる地位に反しない範囲で、国政権能に関与しないならば、
内閣の責任において、様々な形で国民に寄り添って戴く事が可能だ。上皇陛下はご在位中の30年余り、その自由を大いに行使して下さった。更に、その他の行為。その主なものは皇室の祭祀。祭祀では伝統、前例が重んじられる。だから当然、自由裁量の余地は狭い。だが、そうした条件下でも、上皇陛下は平成26年4月11日に
旧「皇室祭祀令」が予想していなかった「昭憲皇太后百年式年祭」を営んでおられる。これは上皇陛下ご本人の“お気持ち”による祭祀だった事実を、私自身が確認している。祭祀以外のプライベートな部分では、より自由の度合いは高まる。と言っても、いついかなる時も天皇であり、日本国および日本国民統合の象徴というお立場から、完全に離れられるのは至難。なので、大きな制約の中での自由でしかないが。それでも、天皇に自由が皆無では“ない”。それは今後、象徴世襲制と矛盾しない限り、
更に拡大し得る余地があるはずだ。