先日の出張中、久しぶりに娯楽のための読書ができた。
手に取ったのは、荻原浩著『二千七百の夏と冬』。
私が縄文時代の遺跡の発掘調査に行ったことを知った
友人がおすすめしてくれた本だった。
「縄文人と弥生人の恋物語だよ」とのこと。
縄文人男性と弥生人女性が手を重ねた状態で
遺跡から発掘されるところから物語が始まる。
けど、読んでみたら、恋バナだけにとどまらない、
いろいろなことを考えさせられる物語だった。
「へえええ」と思ったのが、縄文人の部落「ピナイ」で、
コーミー(米)の存在を知った人々がそれを欲しがるのだけど、
長老のおばあさんが「争いのもとだ」と予言すること。
ときは縄文後期。
主人公のウルクは部落の掟をやぶって「ピナイ」を追い出され、
弥生人部落「フジミクニ」に辿りつく。
ここではコーミーを育てている。
自分たちの部落「ピナイ」との違いが、ウルクによって
語られるところが面白い。
いわば異文化との遭遇。
狩猟生活をする「ピナイ」では、季節によって採れるものを採り、
猪や鹿を殺して食う。海のものは海の部落との物々交換。
一方、迷い込んだ「フジミクニ」では、
コーミーを育てるには広い土地(タァ=田)が必要だ。
他の部落の土地を奪うしかない。
自然に従い、手にしたものは何でも分け合うピナイと、
他をものを何でも奪おうとするフジミクニ。
狩猟民族=狂暴、農耕民族=穏健、
という印象がガラリと変わる。
しかも「フジミクニ」のワウ(王)の家の周りは大きな塀で囲まれ、
周りにはいつもシェンシ(戦士)がいる。
ウルクはこれを「愚かな」と思う。
「このあたりに獣など、囲いの中の若いイー(猪)しか
いないというのに」
シェンシの武器が、やがて人間である自分に向かってくるなど、
想像もしていない。
ここに、弥生人女性との恋がからみ、
さらには現代に生きる女性記者がもう一人の主人公として
パラレルに描かれていく。
縄文人も弥生人も人間で、ケンカもすれば恋もする。
未知のものへの恐怖からくる排他的な差別感情が、
彼らにだってあり、それを苦々しく思う自分の刃が、
読んでいてそのまま自分に向かってくる。
「鳥の巣に卵」と書いて「たぶん」と読み、
「生肉と焼き肝」は「贅沢」を意味する。
そんな数々の縄文語(?)の表現もおもしろい。
放射性炭素年代とか、専門用語も出てきて、
「発掘調査前に読んでおけば良かった!!」と
後悔しきり(*´з`)。
まあでも面白かったから良しとしよう。
もはや仕事で戦記や軍事史ばかり読んでいるので、
こうした小説を堪能する時間は、
私にとって「生肉と焼き肝」でした。