天皇陛下は以前、憲法の定めにより、
世襲によって最もご不自由で、
誰よりも責任の重い「天皇」という
ご生涯を歩まれる事について、
以下のように述べておられた。
「(国民の為に)この運命を受け入れ、
象徴として望ましい在り方を
常に求めていくよう努めています。
したがって、皇位以外の人生や皇位にあっては
享受できない自由は望んでいません」
(平成6年6月4日)と。しかし、それでは陛下ご自身の
“幸せ”はどうなるのか。ひたすら国民の為に“犠牲”を
強いられるだけなのか。それへのお答えは、
2月24日の政府主催の
「天皇陛下ご在位30年式典」での
“おことば”の中で示された。陛下の「天皇」としての公的なご発言は、
4月30日に予定されている「退位礼正殿の儀」
でのものが、最後となるはずだ。しかし、
それは憲法上の国事行為として
行われる儀式の一環なので、
かなり制約された内容にならざるを得ない。従って、こちらの式典でのおことばこそ、
陛下のお気持ちが比較的はっきりと示される、
事実上、最後のものとも言えようか。その中で、陛下はこのようにおっしゃった。
「天皇としてのこれまでの務めを、
人々の助けを得て行うことができたことは
幸せなことでした」と。天皇として常に国民に寄り添い、
国民の為に尽くしてこられた事、
それ自体がご自身にとって「幸せ」だったと
おっしゃるのだ。
何と“無私な”幸せであろうか。陛下は前にも、
次のようにおっしゃっておられた。「皇后が常に私の(いつも公〔おおやけ〕を
優先し私〔わたくし〕を後回しにしなければ
ならないという)立場を尊重しつつ寄り添って
くれたことに安らぎを覚え、
これまで天皇の役割を果たそうと
努力できたことを幸せだったと思っています」
(平成25年12月18日)「天皇として、大切な、国民を思い、
国民のために祈るという務めを、
人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、
幸せなことでした」
(平成28年8月8日)これが「天皇の幸せ」というものか。
余りにも“高貴な”幸せではないか。
又、式典でのおことばで、
取り分け印象に深かったのは、
以下の一節だ。「私がこれまで果たすべき務めを果たして
こられたのは、その統合の象徴であることに、
誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、
過去から今に至る長い年月に、
日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした」
―国民への大きな信頼を率直に吐露して下さった。国民にとって、これほど光栄なおことばはあるまい。
だが一方、私には今後、
天皇たる方が誇りとするに足る、
国民性の美点を失ってはならないという、
道義的なご警告のようにも聴こえた。