以前、取り上げた宮内庁の第3回「大礼委員会」。
そこで宮内庁管理部から提出された資料「今次の大嘗宮の設営方針について」。それには、こんな文言が。「今次の大嘗宮については、基本的には前回の平成度の大嘗宮に準拠した上で、皇族数や参列者数に応じた一部施設の規模の変更や儀式の本義に影響のない範囲での工法・材料の見直しなどを行い、建設コストの抑制にも留意しながら設営を行う」と。だが、実際には主要な三殿(悠紀〔ゆき〕殿・主基〔すき〕殿・廻立〔かいりゅう〕殿)の屋根材が、「萱葺(かやぶき)」から「板葺(いたぶき)」に変更になりそうだ。これは空前の転換ではないか。一見、些細な事実と思われそうだが、「儀式の本義」にも関わる重要な点なので、改めて注意を喚起したい。大嘗宮の具体的な設営建について、最も古い史料は貞観(じょうがん)の『儀式』(873年から877年まで頃に成立か)。大嘗宮は原始さながらの素朴な建物で、その屋根は「葺(ふ)くに青草(かや)を以(も)ちてせよ」とあった。つまり、萱葺だ。『儀式』の規定と「構造・規模」がほぼ一致する奈良時代の大嘗宮の遺構が、平城宮の中枢部、朝堂院跡の発掘調査で確認されている。その最古のものはA期(8世紀前半、715年から730年まで頃)で元正天皇(44代)か聖武天皇(45代)の大嘗祭に該当すると考えられている(笹生衛氏「考古学から見た大嘗宮と大嘗祭」)。勿論、遺構から屋根の葺き方までは復元できない。しかし、他の共通性から類推して、既に萱葺だったと推定するのが自然だろう。大嘗祭の成立は持統天皇(41代)だから、それは成立以来の伝統と見る事も可能だろう。『延喜式(えんぎしき)』(967年施行)にも同様の規定がある。“古儀”の大嘗宮は萱葺屋根だった。では戦国時代以降二百年余りの中断を挟み、江戸時代に再興された大嘗祭ではどうなっていたか。『壬生家記(みぶけき)』に収める貞享(じょうきょう)4年(1687年)の東山天皇(113代)大嘗祭の記録を見ると「ヤ子(屋根)は萱ブキ也(なり)」とある。又、桜町天皇(115代)の元文(げんぶん)3年(1738年)の大嘗祭の伝聞に基づくとされる『大嘗会(だいじょうえ)儀式具釈』(荷田在満〔かだのありまろ〕の著作)にも「屋根ハ惣(すべ)テ萱葺」とある。かくて今上(きんじょう)陛下(125代)の平成度の大嘗祭(1990年)まで萱葺屋根の伝統は見事に固守された。それは、大嘗祭に欠かせない最大限の“清らかさ”を表示する設(しつら)えだったはずだ。恐らく大嘗祭の成立以来、長期間の中断を挟んでも平成まで守られた伝統が今、我々の目の前で断絶しようとしている。
「建設コストの抑制」だけが最優先されては困る。