大嘗祭は、天皇ご自身が1代に1度だけ、
国民が育てた稲を供えて、“最も”丁重な形で皇祖神を祭る国民的・国家的な祭儀。神には新嘗祭と同じように、1晩のうちに“2度”、新穀を献じる。尊い神を丁重に祭る為には、“清浄(清らかさ)”を何より重んじなければならない。清浄を重んじる為には、2度のお供えを行う時、本当はそれぞれ別の“真新しい”御殿で行うのが最も望ましい。いまだ1度も使われていない真新しい御殿こそ、最も清浄だからだ。でも毎年恒例の新嘗祭では、さすがに経費の面でも手間の面でも、そこまで徹底する訳には行かない。だからやむを得ず、夕(よい)の儀も暁(あかつき)の儀も、常設の神嘉殿(しんかでん)を使う。これは厳しく言えば、一種の略式という事になる。しかし、神への供え物を盛る御枚手(おんひらて)や御箸などは勿論、真新しい物を使う。そうやって、制約された条件の中でも、可能な限り、清らかさを追求する。皇位継承に伴う大嘗祭は、たった1度限りの大祀。だから、平素は略式で済ませているのを、本来の形で行う。大嘗宮(悠紀〔ゆき〕殿・主基〔すき〕殿)をわざわざ設営し、その真新しい御殿で、悠紀の儀(新嘗祭では夕の儀にあたる)・主基の儀(同じく暁の儀にあたる)を、それぞれ最も清浄な(つまり1度使った御殿は2度と使い回さないという)形で、奉仕するのだ。毎年は無理でも、せめて1代に1度の大祀では、“あるべき姿”で極力、厳粛に行う。そうやって、清浄を重んじる本来の精神を、懸命に守り続けて来られた。その1代に1度だけの大祀まで、(小さな倹約の為に)略式で済ませてしまうのは、余りにも畏れ多い。そんな事が罷り通るようでは、毎年の新嘗祭に求められるべき清浄ささえ、やがて見失われかねない。来年の大嘗祭でも、ほぼ前例を踏襲する形で大嘗宮が設営されるのは当然だ(但し、主要三殿の屋根材が「萱葺(かやぶき)」から「板葺(いたぶき)」に変更になりそうなのは、
見逃せないが)。