ゴー宣道場門弟の感想ご紹介です!
僕は中国系の移民二世になります。母方の祖母が中国残留邦人で、1985年あたりに一族で日本にやってきました。両親は中国生まれ中国育ちです。
私が生まれたのは1990年(平成2年)なので日本生まれ日本育ちです。
こういう背景もありまして、今回の議論は他人事とは思えませんでした。
両親が移民として日本社会に適応していく過程はみてきています。
移民が異なる国に適応するのはそんな簡単な話ではないと思います。
特に言葉の壁というのはとても大きいと思います。
母は祖母が日本人だった関係もあってかある程度日本語に親しんではいました。それでも不便はあったと言います。
父に至っては1年ほど語学学校に通っていたようです。
それでも母語ではないですから、できる仕事というのも限られますし、親子の間でのコミュニケーションも普通の家庭のようにはいかない事情があります。
世代間での溝というか壁のようなものが出来上がります。
本質的には親子であっても育った環境が違うので合わないということがあります。別に関係は悪くないのですが。
道場の中にもありましたが、例えば移民の子供が日本語が不自由な状態で学校に入学したときの対応を考えるとなかなか大変だと思います。
この前偶然NHKで日本語が不自由な生徒に対して個別に特別授業を組んでいる学校をみました。
先生が熱心に教えていて、生徒も学習意欲が高く、それはそれでいいのですが、今後移民が増えていき、対応できる人員や予算はあるのだろうかと思ってしまいました。映像ではその学校は1対1の授業でしたが、今後増えていく全ての移民の子弟に社会に適応できるレベルの語学教育は難しいでしょう。
移民の語学教育というのはとても大事だと思います。言葉は根本です。移民とすでに住んでいる住民との交流も言葉のやりとりがなければうまくいくはずがありません。偏見や誤解も交流から落ち着くというのはあるはずです。実際に中国韓国に友人がいる人は排外主義のネトウヨになりにくいと思います。
移民第一世代、その子供の第二世代に対する教育政策は整っているのでしょうか。語学教育は簡単ではないはずです。その点も本来は熟議を国会でするべきだったと思います。
政府の建前では帰ってもらうという話ですが嘘でしょう。先に法案を通していくらでも変えられるのですから。
移民を語ると必ずくっついてくる「多様性」という言葉。多様性とは実に聞こえがいいですが、多様性という観念自体も多様性という観念を社会全体に強制させるという側面はあります。そこから生まれる価値観としてPCが出てきたと思いますが、トランプなどが出てくるのもこのPCの強制からの反発ということが言えると思います。
私は多様性という価値と社会の安定という価値を天秤にかけるのであれば社会の安定をとりますし、政治にはそうあって欲しいと思っています。社会の安定を守れる範囲であれば多様性は守られていいとも考えていますが。
今でも日本は移民が多数入っている国だという意見もあります。今のレベルで入るのであれば日本社会に適応させる(この物言いも差別的だという人もいるが)余力がまだあるかもしれない。しかし数が大幅に増えれば移民だけで独自の閉ざされたコミニュティが出来上がりはしないか?閉ざされた結果仮に同じ日本に住む者同士であっても分断が起きはしないか?その結果として社会秩序が乱れはしないか?という不安があります。
泉美先生が仰っていた西川口や蕨は僕は何度か言ったことがあります。西川口にある中華料理は日本ではなかなか食べられない中国人向けのガチ中華料理が食べられるので、それを目当てに行ってます。観光地化された中華街にはないリアルチャイナタウンの雰囲気も楽しんでいます。オリエンタリズム的な消化と言えばいいのでしょうか。
楽しむ一方でこういう街が増えすぎたら増えすぎたで大変かもなぁと思ったりもします。もっとも西川口や蕨の場合は日本人も中国系の住民もうまくやっているようですが。
ネットでリベラル系(左翼と言った方がいいかもしれませんね)が多様性がとか実に聞こえのいいことを言って移民を歓迎する言説をみたりしますが、本気で言っているのか。と疑いたくなります。安全圏から耳障りのいいことを言ってリベラルしぐさを披露しているだけじゃないのか。実際に移民が入ることで起きる弊害をちゃんと考えているのだろうかと思います。彼らは実際に弊害が出てきても責任を取ったりはしないでしょうし。
今このご時世だとこういう意見もポリコレに反して、私は排外主義の差別主義者になるのでしょうか。安直なレッテル貼りは議論の余地を無くしてしまうので大変に危ういと思っています。
第一私は差別される当事者だというのに。
山尾議員のお話では詳細を忘れてしまいましたが議事録を作成しないまあ連日の審議が進んでしまって、前日と翌日で矛盾したことを大臣や首相が言っても議事録という証拠がないので追求できないという審議上の不備があったというのは驚きました。実にやり口が姑息です。数年前であれば大臣は首が飛んでいたのではないでしょうか。安倍政権になってからというもの議会の運営のあり方も形骸化が激しいです。本来であれば道場で議論する内容を議会で議論するべきですし、そうあって欲しいのに、そうした声を拾う政党がないのは悲しい限りです。
冒頭によしりん先生がホワイトボードにマトリクスを書きながらインターナショナリズムで人権国家主義の政党がないのはどうにかならないものかと思っています。山尾議員は信頼してますが立憲民主党も最近どうなんだと思っていますし。
倉持先生の最高裁が保守という発言や山尾議員の人権を守るために国家を作ったという発言は、まだやっぱりお二人は法学の空気の中でリベラル的な感覚を持った上での発言かなぁと思いました。ただ議論の中で少しずつ変化はしてるのだと思います。自然権をフィクションとおっしゃったのがその表れなのでしょう。
法学系の人とお話をすると法を成り立たせるフィクション(自然権、人権)といったものにメタに、フィクションとしてという形で話そうとすると話が通じなくなる時があったりします。そういう人に限って「伝統はフィクション、作られた伝統云々」と言ったりするのですが。
なかなか自分が長年親しんできたフィクションというのは、フィクションであると認めることも、メタに眺めることも難しいことなのだと思います。ベタにならざる得ないところがある。そう考えるとこの倉持先生の変化というのはいいことなんじゃないかなと思ったりしています。
しかしこれからが本当に心配です。どうなるのでしょうか。
長くなりましたが。以上感想です。
「多様性という価値と社会の安定という価値を天秤にかけるのであれば社会の安定をとります」
これが、リアルな経験のある人なら持つ真っ当な感覚であるのに、それを言ったら道義にもとるかのような空気が作られていることは大問題だと思います。
アイヌの問題も同じですが、現実を見たくない偽善者が一番問題です。