本日の道場、お疲れ様でした!
小林先生の図表、頭を整理するのに
とても役立ちました。
また山尾議員のお話で、委員会が連日あると
議事録に目を通すことすらできず、
戦略が立てづらくなるという点は、
目からうろこでした。
そうやって熟議を避けようというスタンス
そのものが腹立たしい。
国会軽視もいいところだし、それはつまり、
国民を軽視しているのと同じこと。
益々腹立たしさが募りました。
また今回の議論を通して、移民問題の難しさを痛感しました。
今存在している技能実習生たちが置かれた境遇(溺死が多すぎる!)、
その改善策なしに外国人労働者を受け入れようとする日本の在り様、
特定技能云々という「実質的な移民」(安倍定義による)に
対する言葉のごまかし、
失業者対策やニート対策が行われないままの
安易な労働力確保と、その先に一体何が待っているのか、
という視点の欠如。
参加者の方のアンケートでも、移民問題を引き続き
議論してほしいという意見もありました。
12月中に空っぽな法律の中身が詰まっていくだろうとのこと、
注目し続けていきたいと思います。
ところで倉持師範に「人権」以外にも一つ質問がありました。
人権が「不自然な自然権」と呼ばれていること、
フィクションであり、目指すべき理想(規範)であることは
なるほど理解できました。
でも私が気になるのは、その人権を振りかざした先に、
萎縮した社会、自己規制の社会、表現の自由が奪われた社会が
あるのではないかということ。
フィクションであるなら、よほど注意深く扱わないといけません。
今だってセクハラだのポリコレだのと私はうるさすぎると
思っています。
以前ブログでも書きましたが、『新潮45』がつぶれて当然、
という意見は、そうした流れを助長するのでは?
という疑問がぬぐえません。
一つの雑誌が事実上廃刊になるほどの人権侵害とは
具体的に何なのか、
『新潮45』の事例はそれにあてはまるものなのか、
「つぶれて当然」とする根拠を知りたい。
私自身は『新潮45』がつぶれて当然、とは思っていません。
差別表現がダメなのなら、似たような『WiLL 』や
『Hanada』もつぶれて当然?
人権に「表現の自由」が包含されているのなら、
このバランスをどう考えればいいのだろう。
道場では議論の流れを切ってしまいそうだったので、
このブログにて、質問を公開します。
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