昭和54年6月の国会で、
広範な国民の願いを背景に、元号法が成立した。元号は占領下に、GHQの強権によって法的根拠を曖昧にされていた。だがこの時に、晴れて確かな法制度として再確立したのだ。この法律に基づいて、「昭和」から「平成」への改元も、滞りなく行われた。言う迄もなく、元号は「大化」以来の伝統文化であり、もっと踏み込んで言えば、歴史的にわが国の独立と統一の象徴。即ち、朝鮮半島では長くシナ皇帝が定めた元号が使われていたのに対して、日本では一貫して天皇が定めた独自の元号を使用し、国内が1つにまとまっている時代には、1つの元号があまねく用いられた(例外は南北朝時代)。元号法は、そうした歴史と伝統を踏まえ、良識ある国民の祈りの結晶として制定された。従って、いやしくも保守を名乗る者達なら(そうでなくても、たしなみのある日本人なら)元号を尊重するのは当たり前だろう(私自身は保守ではなく、普通の日本人でありたいと考えているが)。今や、元号法の制定を「時代錯誤の非文化的愚行」と批判し、猛烈に反対していた共産党でさえ、その機関紙『赤旗』には元号を併記している(昨年4月1日付より)。ところが一方、すっかり凋落気味な『正論』に代わって、保守論壇を代表する月刊誌『Hanada』と『WiLL』(の発行日など)を見ると、元号は使われていない。専ら西暦だけだ。これは一体どうした事か。わざと元号を排除しているのか。それとも、端(はな)から元号への意識そのものが抜け落ちてしまっているのか。どちらにしても嘆かわしい。まぁ、“今どき”の保守の水準に相応しいと言えば、その通りかも知れないが…。なお10月16日のブログで、古川貞二郎氏の肩書きを「元内閣官房長官」としていたのは、「元内閣官房副長官(事務担当)」が正しい。私の不注意による「副」の脱落だった。
古川氏への非礼をお詫びする。