昨日に引き続き、朝日新聞言論サイトWEBRONZAに、『安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ』の(中)がアップされました。
今回の寄稿で一番書きたかったのはここで、コロンビア大学のマーク・リラ教授の『リベラル再生宣言』を取り上げました。
ここでもすこし紹介します。まず、リラ教授の「トランプはリベラルにとって最大の問題というわけではない。彼の向こうにあるものを見ようとしなければ、この先、希望はほとんどないだろう」という主張に目が覚めました。リベラルの衰退はリベラル内部の問題だと。アメリカのリベラルは「アイデンティティ・リベラリズム」の藪に迷い込み、「国を属性の違う集団ごとに分裂させるような論理を作り上げ」「特定の集団の利益のために怒りの声をあげた」と指摘します。 行き過ぎたアイデンティティーは、いわば自分で自由にブランディングできるフェイスブックのアカウントのようなものになり、他者との連帯はせいぜいお互いに「いいね」を付け合う程度の連帯である。本来、「市民」は「個人の持つ属性とは無関係に、絶えず政治社会を構成する他のすべての市民と結びついて」おり、「社会における権利を持ち、同時に義務を負っている」が、「フェイスブックにおいては、自分の承認した人々とだけ結びつくことになるし、その人との結びつきは、民主主義社会における他人との政治的な関係とは違っている。」これ、耳が痛いですよね。
リベラル勢力は、一見点数を稼ぎやすい「わかりやすい成果の出る課題」に没頭し、「エネルギーを分散させてしまって」いる。「それで成果が上がっても、有権者の大半はそれに無関心なので、選挙の勝利には結びつかない」のだ。重要なのはどのような属性でも、市民として連帯できる「ビジョン」を提示することなのに、あえて「そういうビジョンを提示せざるを得ない状況に身を置かなくて済むように動いてしまっている。思考も言葉も行動も、ビジョンの提示から逃げるようなものになっている」と指摘します。
「自分自身が属する集団にばかり目を向けて他を顧みないことが、アイデンティティ・リベラリズムの大きな問題」であり、「通常の民主政治では、自分と似ていない人たちと関わり、彼らを説得する、という作業がどうしても必要になる」が、「アイデンティティ・リベラリズムに走る人々は、それを避けて一段高いところから無知な人たちに向かって説教することを好む」
リベラルは「一切、話し合おうとせず、自分に反対する者がいれば、皆、道義をわきまえない怪物のようにみなす。決して、ただ考え方が異なるだけの同じ市民だとは考えない、リベラルはそういう人種に見られるようになったのだ」
これそのまま日本にもあてはまると思います。トランプを安倍首相に、民主党を日本の野党(立憲民主)に置き換えればそのままあてはまる。
この本のあとがきで駒村先生が枝野幸男代表にも是非読んでほしいと書かれていましたが、枝野さん、読んで!!