こんなことを言ったら『後妻業の女』でも目指して
いるのかと笑われそうなのだけど。
以前はこんなことちっとも思わなかったのだけど、
三十代後半ぐらいから、
「好きになった人の、最後の女になりたい」
という願望を持つようになった。
高齢化の影響なのか?
はたまた長年の水商売の経験のなかで、
くたびれながらも休まないおじさんたちを見送りすぎた
からなのか?
男の人は、「この女にとって俺がはじめての男だ」と
願いたいものかもしれないけれど、
女の私は「はじめての女になりたい」とは絶対思わない。
むしろ「キミがはじめて」と言われたら引きそうだ。
ただし、これから戦争に行くなどして死ぬ予定の男ならば
「はじめてであり、最後の女」ということでOKだ。
私はなにを言っているのだ。
男と女のちがいを考えつづけているのだけど、
先日、寝しなに読んだオスカー・ワイルドの長編小説
『ドリアン・グレイの肖像』に、私のなかになんとなく
あった願望がそのままセリフとなって登場したので驚いた。
男は愛する女のはじめての男であることを願い、
女は愛する男の最後の女になることを望むものだ、と。
19世紀の男女観に共感するとは思わなかった。
ちなみに、結婚などしてしまうと財産なんかの損得問題に
よって「最後」の持つ意味合いが失われてしまうので、
願望のなかにあるのは、あくまでも「最後の恋人」だ。
でも、いまや超高齢化社会で、みんななかなか死なない。
じじ向け雑誌は「あの頃の俺をもう一度」みたいな特集
ばかりだし、なかなか最後までつきあうのも難しそうだ。
あと、オスカー・ワイルド、
女は男に自己を捧げるが、捧げたものをあとから
小出しで取り返したがるのもまた女だ、
というセリフに笑ってしまった。