「新潮45」休刊の一報を聞いた時、私は「ザマミロ」とまでは思わないものの、「痛快」とは感じました。
というのも、モリカケ問題以降、どんなにおかしなことでも居直って詭弁を使いまくってその場を凌いで時間が経てば、何だってまかり通るという倫理崩壊状態が、あまりにも蔓延しまくってうんざりしていたからです。
今回も同じパターンを踏むのだろうなあと思っていたら、久しぶりに「ダメなものはダメ!」という結果が出たので、まずは溜飲が下がる思いがしたのでした。
しかしその後、師範方のブログを読んで、ひとつの雑誌が潰れて表現の幅が狭まるということを考えると、ただ快哉叫ぶわけにもいかんなあとは思いましたが。
今回の件でよく引き合いに出されるのが1994年、「ナチ・ガス室はなかった」という記事を載せて廃刊になった文藝春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の事件です。
よしりん先生はこの件をファーストゴー宣・8巻、第140章で論評しています。
当時、雑誌が問答無用で廃刊になったことに対して「ジャーナリズムの危機」を訴える声があったのですが、よしりん先生はこれに対して実に明快に、こんな見解を示していました。
「ナチ・ガス室はなかったというのは、ジャーナリズムではない。単なるウソだ」
その上でよしりん先生は、商業主義抜きでのジャーナリズムはないとしながらも、
「商業主義に負けてすねない 過激の向こうに理想をにらむ 真実に肉薄してなお退屈せずに面白い そんなジャーナリズムをだれか創れ!」
と、檄を飛ばしています。
今こそ、そんな気概のあるジャーナリストが出て来てほしいものです。
一方、よしりん先生は「マルコポーロ」編集長だった花田紀凱氏には、うかつにすると「ウソジャーナリズム」に堕する危険性を充分認識して「もう一度立ち上がってほしい」とエールを送っていました。
今の花田氏を見ると、これまた虚しいものですけれども。
さて、「Hanada」や「WiLL」は来月、「新潮45」休刊について「言論の自由を守れ」とか言って特集組むんでしょうかね?
「LGBT関連予算に税金が使われ過ぎている」も「LGBTは全くの性的嗜好」も、言論というより「単なるウソ」なんですが。