「女官には公的な『お役女官』と、(男系男子の)
皇嗣(こうし)を絶やさないために側室を務める
「こうした…女官制度に、若い皇太子(後の昭和天皇)は反発した。
大正11年(1922)1月28日、牧野(伸顕)宮相(宮内大臣)
は皇太子に呼ばれた。
『殿下仰せに、自分の結婚も其(その)内行う事とならんが、
夫(そ)れに付(つき)特に話して置き度(た)く考うるは女官の問題なり、
現在の通り、勤務者が奥に住み込む事は全部之(これ)を廃止し日勤する事に改めたし』
…女官を日勤制にし、朝夕のことは女中(じょちゅう)
任せにしてはどうかと、日頃考えてきたことを整然と語った。
旧慣にズバリと挑戦したのである」
「女官制度の改革については、結婚のころまでになんとか形ができあがった。
…最大のものは、女官を既婚の女性とし、側室制度を宮中から追放したことだ。
大正天皇のときも『お控え』はいたが、皇后の監視が厳しかったという話もある。
昭和元年(1926)12月31日の『東京朝日新聞』には、
『廃止に決定した宮中大奥の制度…新帝の畏(かしこ)き思召(おぼしめ)し』とある」
側室制度を復活させたり、皇室典範を改正して非嫡出子孫にも
皇位の継承資格を認めたりする事は、およそ想像し難い。